解✦談

解りやすく、解きほぐします。

猫に「心」はあるのか?

夫婦の呼び声は、猫には別の音に聞こえる

 

2カ月ほど前のことです。

夜の9時頃、最寄り駅からの帰り道で1匹の猫に会いました。

首輪をつけていないので、飼い猫かノラ猫かは分かりません。

そこは人通りの少ない裏道で、猫は道の真ん中に寝そべっていました。

目の前の家では小学生のための塾をやっていて、何人かの子どもと先生が
外で話をしていました。

私は普段なら、すぐ猫に向かって話しかけるのですが、他人の目が気になったため、
まずは猫の横を素通りして、10メートル以上離れてから振り向きました。

左腕を猫の方にまっすぐ伸ばしながら、声を出さずに心のなかで
「お~い」と叫ぶと、猫は起き上がってトコトコと近寄ってきます。

「ニャッ」と小さく鳴いてから、私の脚や鞄にスリスリを始め、
やがてパタンと倒れこんで「なでてくれ」と要求しました。

この猫には以前にも、朝の通勤時に一度だけ会ったことがありました。

その日は私が声をかけると近寄ってきて、やはり脚にスリスリしました。

これだけ人懐っこい猫なのだから、相手をしてくれそうな人間ならば、
誰にでも近寄っていくのかもしれません。

ただし、2度目に会ったとき、私は声を出していません。

しかも、けっこう離れたところから、猫に向かって腕を伸ばしただけです。

それですぐに起き上がって、近寄ってきたということは、目で私を見て、
何かを判断したということなのでしょうか。

動物はどのように人間を識別しているのか、昔から興味があるのですが、
はっきりしたことは、いまだによく分かりません。

かつての飼い猫は私や家族について、目でも耳でも鼻でも識別していたように
思います。

つまり人間一人ひとりについて、ある程度の姿かたちと声の特徴、そして匂いが
猫の頭にはインプットされているのではないか。

それらは、猫にとって「好ましいもの」と「好ましくないもの」という程度の、
ラフな区分けなのかもしれませんが。

You Tubeの猫動画をいろいろ観るようになってから、気付いたことがあります。

飼い猫は、飼い主や他の飼い猫の様子を、実によく見ているのですね。

自分より年長の猫がやることを見て、その真似をしたり、他の猫が飼い主から
どんな扱いを受けているのかを見て、自分も同じような扱いを飼い主に要求する、
あるいは自分の地位を確認する。

とくに多頭飼いのケースで、それが目立ちます。

「ノラ猫は集会を開く」などと言われるように、本来、猫には猫なりの社会が
あるのだと思います。

そういう猫社会で生きていくための知恵というか、社会性の名残りのようなものが、
飼い猫にも息づいているのではないでしょうか。

猫の耳(聴覚)については、養老孟司『遺言。』という本に、
面白い内容がまとめられています。

猫にかぎらず動物は基本的に「絶対音感」を持っているのだそうです。

絶対音感は、ある音の高さを他の音と比較しないでも識別できる能力のこと。

たとえば飼い主が夫婦だとして、夫が飼い猫を「ミーちゃん」と低い声で
呼ぶときの音と、奥さんが「ミーちゃん」と高い声で呼ぶときの音は、
ミーちゃんにはまったく別の音に聞こえています。


聴覚の仕組みは人間も猫も同じで、耳のなかに「音をとらえる膜」がいくつもあり、
音の振動数に合わせて、それぞれ別の膜が振動するようになっています。

つまり、猫は自分が「ミーちゃん」と呼ばれること(名前であるという意味)を
理解しているのではなく、音の振動数によって、それが飼い主の声であることを
聞き分けているのです。

飼い主から自分の名前を呼ばれた際に、いちいち「ミャ~ン」と反応する
猫もいるし、無反応な猫もいます。

恐らく猫にとっては、何度も繰り返される呼び名の音の振動数が、
「自分に向けられている」「自分をかまってくれている」感覚として、
とりあえずインプットされているのではないでしょうか。

そこで律儀に反応するかどうかは、猫の性格によるのだと思います。

なかには「おやつ」という言葉を聞いて喜んだり、「おふろ」や
「びょういん」という言葉を聞いて逃げ出したりする猫もいますが、
それらは音の振動数が「その後の自分に降りかかる出来事」とセットになって、
やはり猫のなかに感覚としてインプットされているのでしょう。

これは考えてみれば、当たり前のことです。

たとえば動物が山奥とかジャングルで生きるとき、うっそうと茂った
木々のなかでは視覚より、むしろ聴覚や臭覚が役立つことの方が多いかも
しれません。

自分のエサとなる、あるいは天敵となる他の動物が出す音や匂いについて、
親は子に教育するだろうし、代々受け継がれる感覚は非常に重要でしょう。

いわゆる本能というものは、飼い猫にも備わっているわけです。

 

猫に意識はあるが、他を思いやる気持ちは?

 

ところで、猫には人間と似たような「心」というものはあるのでしょうか。

世の中の飼い犬をみると、飼い主に対する「絶対的な忠誠心」のようなものを
感じることが少なくありません。

猫は確かに気まぐれですが、忠誠心とまでは行かなくとも、飼い主に対する
「信頼の心」ぐらいはあってもいいような気がします。

ノラ猫の世界では、ある程度成長した後は、父親どころか母親についての認識も
猫のなかから消えるようです。

飼い猫にとっても事情は同じかもしれません。

 

You Tubeの猫動画のひとつで、飼っている4匹のなかの2匹が、実の母親猫と
その息子猫という例があります。

その母子は4匹のなかでもとくに仲が良いのですが、かといって現在はいつも
飼い主がエサをくれるので、息子猫が母猫を自分の母親と認識しているようには
思えません。


飼い猫に「信頼の心」があるとして、その対象となるのは、まずエサをくれる人、
それから自分がとくに好きな人なのだと思います。

家族で猫を飼っている場合、猫にとってエサをくれる人と、自分がいちばん
好きな人が異なるケースはけっこうあるようです。

手元の辞書で、「心」についてのおもな意味を確認してみます。

(1)人間の体のなかに宿り、意志や感情など精神活動のもとになるもの。
   精神の働きそのものや、その現れも指す。

(2)他人の事情などを察して、優しく思いやる気持ち。

これを見るかぎり、心はほぼ人間に限定されたものと定義されているようです。

しかし、少なくとも(2)については猫にもあるのではないかと、私には
思えてなりません。

たとえば以前、本ブログの「心をつなぐ心霊・怪奇現象」で紹介した、
かつての飼い猫が私に対してとった行動がひとつ。

それ以外にも、飼い主が病気になった際に寄り添ったり、飼い主の
子ども(赤ちゃん)の面倒をみたり、一緒に暮らしている他の飼い猫が
病院から帰ってきたとき、しばらく後をついて回って様子をうかがったり…。

動画で観るだけなので、真偽のほどは定かではありませんが、
猫に「人間や他の猫の事情を察して思いやる気持ち」がないとは、
どうしても思えないのです。

前述の『遺言。』には、以下のような意味のことが書かれています。

●人間以外の動物と3歳児ぐらいまでの人間は、「相手の立場に立つ」という
  ことができない。

●どんな動物であれ、寝たり起きたりしていれば、意識はあると考えられる。

●しかし、じつは意識に科学的定義はない。

今度は「意識」について、辞書で引いてみます。

(1)自分や周囲の状況などを(はっきりと)とらえる心の働き。
   また、その働きをなす場所としての心。

(2)自分や周囲の状況などをそれとして(はっきりと)とらえること。

(3)(1)によって得られる、心的な内容。

科学的に分からない以上、これらの説明はあくまでも言葉による概念や、
思索による哲学の領域を出ないのかもしれません。

ひとつ気付くのは、(1)と(3)が心にかかわる事象であるのに対し、
(2)はそうとも限らないということです。

辞書には(2)の用例として、「視線を━━して固くなる」と出ていますが、
これなら猫にも見られます。

概念的にまとめると、こんな感じになります。

猫には「意識」があるので、自分や周囲の状況などをそれとして(はっきりと)
とらえることはできる。

しかし「相手の立場に立つ」ということができないので、他人の事情などを察して
優しく思いやる気持ち、つまりは「心」があるとは言えない。

 

ある解説によれば、猫の「知能」は人間に換算すると、おおむね2~3歳と
言われているようです。

これは人の成長にともなう思考の発達段階を分類したデータから、
類推されたものと思われます。

また、猫の「知性」は狩りや自分にとっての危機的な状況など、
生死にかかわる場面で大いに発揮されることも知られているそうです。

こんなことは考えられないでしょうか。

一部の飼い猫には、人間の4~5歳ぐらいの知能が備わることがある。

飼い猫なので、日常生活ではさしあたって生死にかかわる場面はほとんどない。

だから、知性を発揮する能力が他の分野、たとえば人間や他の猫の事情を察して
思いやる気持ちなどにシフトすることがあり得る。

私が猫好きなため、どうしても猫に肩入れしてしまう面は否めないと
思いますが、少なくともこんな風に考えないと理解が難しい行動を、
猫がとることもまた事実なのです。

 

日本の財政をめぐる空しい議論

財政再建派の懸念とリフレ派の主張

 

日本の借金は現在、国と地方自治体を合わせて1200兆円を超える規模に
膨れ上がっています。

こうした状況を危機的とみなして、専門家の間には「財政再建を急ぐべき」という
声があります。

財政再建の具体的な目標のひとつに挙げられているのが、プライマリーバランス
(国や地方自治体などの基礎的財政収支)の黒字化です。

日本政府は2018年の段階で、プライマリーバランスを2025年で黒字化する方針を
掲げましたが、その実現は誰がみても、すでに困難なのが実情です。

日本では近年、プライマリーバランスがマイナス(赤字)の状態が続いており、
国債などを発行しないと、国民生活に必要な1年分の支出をまかなうことが
できません。いわば借金頼りで毎年の国家予算が成立しているわけです。

今後もその状態が続くと、将来的に日本の「国家としての信用」が疑問視されて、
国債を買ってもらえなくなったり、世の中の金利が急上昇するのではないかと、
財政再建の人たちは懸念しています。

ただし、じゃあどうすればいいのか、という具体案がありません。

相変わらず、「より実効性のある成長戦略を」といった意見が多く聞かれますが、
専門家のなかには、従来型の高成長を前提とした経済運営は、もはやそれ自体に
無理があると指摘する人もいます。

日本経済の最大の急所は人口減少であり、少子化対策や移民の受け入れなどで
人口増加に転じるなど、よほど抜本的な環境変化がないかぎり、成長期待は
生まれないという考え方です。

その意味では成長一辺倒ではなく、仮に低成長しか実現しなかった場合でも、
中長期的に持続可能な財政健全化プランが必要になりますが、果たしていまの
日本にそんなプランを考えるだけの能力と覚悟があるのでしょうか。

一方で、財政再建に否定的な専門家もいます。

その代表が「リフレ派」と呼ばれる人たちです。

リフレは「リフレーション」(通貨再膨張)の略。

リフレ派が主張する「リフレ政策」とは、中央銀行が世の中に出回る
お金の量を増やし、国民のインフレに対する期待を高めることで、
デフレからの脱却を図ろうとする金融政策を指します。

現在の日銀も、基本的にはこうしたスタンスのもとで大規模な金融緩和を
続けています。

リフレ政策は基本的に、以下の2つの経済理論を根拠としています。


1.貨幣数量説

  「貨幣供給量×流通速度=物価×実質GDP国内総生産)」という式により、
  世の中に出回るお金の量を増やせば物価は上がると考える。

2.フィッシャー方程式(「実質金利名目金利-期待インフレ率」)

 この式を変換すると「名目金利=実質金利+期待インフレ率」なので、
 名目金利が一定ならば、期待インフレ率を高めることが実質金利の低下につながる。

 実質金利が下がることで、個人消費や企業の設備投資などが促進されるため、
 物価上昇や景気回復、すなわちデフレ脱却へ向かうと考えられる。

貨幣数量説の前提になっているのは、「世の中に供給されたお金は、
いずれ必ず消費や投資に回る」という考え方です。

世の中に出回っているお金の量が足りないから、国民はお金を使わずに
貯蓄するのであり、中央銀行がお金をどんどん刷って人びとに十分に
行き渡るようにすれば、消費も投資も増えて物価上昇や景気回復が実現する、
という理屈です。

問題は、お金を手にした国民が本当にそれを消費や投資に回すのか、
定かではないことでしょう。

フィッシャー方程式では、何はさておき人びとの期待インフレ率を高めることが
重要であり、その手段として、たとえば「インフレ目標」などのアナウンス効果
有効と考えられています。

中央銀行が、自らが掲げたインフレ目標に達するまで金融緩和を続けることを宣言し、
人びとに「近い将来インフレになる」と信じ込ませることで、消費や投資の前倒しを
誘うという方法です。

ここでも問題は、人びとが近い将来のインフレを信じたとしても、供給されたお金が
本当に消費や投資に回っていくのか、定かではないということです。

 

「お金があれば人びとはすぐに何かを買うはず」とか、「インフレになる前に
人びとは消費を増やすはず」といったリフレ政策の考え方は、私たち一般庶民の
感覚からすると、あまりに机上の空論すぎるように思えます。

恐らく、生身の人間をなめているのでしょう。

 

単なるバラマキの発想から抜け切れない

 

世の中にお金を供給する手段として、「ヘリコプターマネー」と呼ばれる
経済政策も検討されています。

これは政府が財政出動をおこなう際に、その財源にあたる部分を中央銀行
負担するもの。

自国通貨の信用を維持するために、世界各国はこれまで中央銀行国債
直接買い入れなどを通じて、財政ファイナンス(国家財政の肩代わり)に
踏み出すことを禁じてきました。

ヘリコプターマネーは国家にとって、いわば禁断の経済政策なわけです。

ほかにもMMT(現代貨幣理論)とか、FTPL(物価水準の財政理論)とか、
専門家の間では、何だか小難しい経済理論がいろいろ議論されているようです。

簡単にいうと、MMTではこんな風に考えます。

自国通貨を発行できる政府は、金利が低い間はどれだけ借金をしても(どれだけ
大量の国債を発行しても)、デフォルト(債務不履行)に陥ることはない。
だから、たとえ財政赤字の状態でも、国は極度なインフレが起きない範囲で
積極的に財政支出をおこなうべきである。


FTPLでは、こんな風に考えます。

政府が将来的な増税や歳出削減による財政再建をひとまず棚上げする。そのうえで、
「これから財政支出の拡大によって意図的に適度なインフレを起こし、債務の一部を
物価上昇によって相殺させます」と宣言することで、個人や企業のインフレ期待を
高められる。

これらは、いずれも財政再建に否定的な専門家が主張している話です。

どの話が正しいのか、私には解らないし、要はどれも結果論なので、
実際にやってみなければ何がどうなるのか解らないようにも思います。

だから、これらを主張したり検討したりすることに、とくに異議はありません。

しかしながら、いくつか気に食わない点はあります。

まず、結局はどれも単なる「お金のバラマキ」という発想から抜け切れていないこと。

供給する資金を、どのような目標に向けて何に使えば最も効果的かということが、
はっきりと見えてきません。

たとえば「アベノミクス」では、このような説明が聞かれました。

日銀の異次元緩和がもたらす円安・株高により、大手製造業とその従業員や
都市部の富裕層が潤う。そこからトリクルダウン(富のこぼれ落ち)によって、
非製造業や中小企業、地方、一般家計にも恩恵が波及していき、いよいよ
経済の好循環が始まる。


富のこぼれ落ちとは、何と一般庶民をバカにした、ふざけた説明だろうかと思います。

どのような経済理論や経済政策を駆使したとしても、恐らく単なるお金の
バラマキでは、低所得層や地方、中小・零細企業まで十分に恩恵は行き届きません。

具体的な戦略やプランがないのだから、当然でしょう。

それから、財政再建派の人たちと同様に、覚悟が感じられないこと。

日本には国内外に莫大な保有資産があるので、それに着目すれば、国の借金は
とりたてて問題にならない、という意見もあるようです。

だとしたら、将来的に日本が本当に窮地に陥った場合には、国の資産に計上される
空港や防衛施設などの公用地、さらには大量に保有している米国債を売ることも
辞さない、といったことに現時点できちんと言及しておいてほしいものです。

それはいわば子どもや孫、それ以降の世代には申し訳ないけれど、将来的に
起こり得る日本の危機的な状況には目をつぶらせてもらう、ということでしょう。

そういう言いづらいことには蓋をする割に、いつも「ああすれば、こうなる」と
偉そうに言うばかりだから、私は経済学者や市場関係者とやらが嫌いなのです。

 

金(ゴールド)の価格について考える

有事と円安により、国際・国内価格とも上昇

 

金(ゴールド)の価格には、国際価格と国内価格(小売価格)の2種類があります。

世界的な取引の基本になる国際金価格は、トロイオンス(約31.1グラム)という
重量単位あたりの、ドル建て価格で表示されます。

それをグラムあたりで円建てに換算し、調達コストなどを加えたものが
国内金価格となります。

最近の価格水準と、過去の価格推移を見てみましょう。

なお、国際金価格として、ここでは金の現物価格の国際指標となる
ロンドン市場の金価格を取り上げます。

今年(2021年)11月18日時点で、国際金価格は1トロイオンス=1860ドル台、
国内金価格は1グラム=7500円台となっています。

いまから14年以上前の2007年8月には、国際金価格は600ドル台、国内金価格は
2000円台にすぎませんでした。

そこから08年のリーマン・ショック金融危機を経て、両価格とも上昇傾向を
強めていきます。

たとえば19年12月の時点では、国際金価格が1400ドル台、国内金価格が
5000円台まで上昇していました。

20年に新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化すると、金価格の上昇レベルは
さらにアップします。

国際金価格は20年8月に、2067.15ドルの史上最高値を記録します。

国内金価格は、まず20年4月13日に6513円(消費税込み)を付けて、消費税導入前の1980年1月に記録した6495円という史上最高値を40年ぶりに更新しました。

その後も国内金価格の上昇は続き、20年7月には初めて7000円の大台を突破。
8月7日には7769円の史上最高値を記録しています。

金はその昔から、有事の際に資産の一部を緊急避難させたり、資産全体の
目減りを
防ぐ「守りの資産」としての機能が注目され、世界中の資産家や
投資家に重宝されてきました。

金には、世界の投資家がリスクオフ(リスクを避ける)の姿勢を強めたときに
買われやすく、リスクオン(リスクを取る)の姿勢を強めたときに売られやすい
性質があるわけです。

上記のリーマン・ショック金融危機、あるいは新型コロナウイルスの感染拡大は、
まさしく世界的な有事であり、それらが国際金価格の上昇に大きく影響したことは
間違いありません。

ただし、国内金価格については少し事情が異なります。

国内金価格はトロイオンスあたりのドル建て価格を、グラムあたりの円建て価格に
換算するため、為替変動の影響を受けるのです。

ドル建ての国際金価格が変わらない場合、円安になると国内金価格は上昇し、
円高になると下落するのは、他の外貨建て金融商品と同じ理屈です。

実際に07年8月~12年8月の5年間で、それぞれの価格について月間平均値の
推移を見てみると、国際金価格が2.4倍まで上昇したのに対して、国内金価格は
1.6倍の上昇にとどまっています。

これはその間、円・ドル為替レートが32%の円高になった影響です。

12年8月の円・ドル為替レートの月間平均値は、おおむね1ドル=80円でした。

今年11月18日時点の為替レートは1ドル=114円なので、12年8月から42%の
円安が進んだことになります。

現在、国内金価格が再び史上最高値に近づいているのは、こうした最近の円安傾向も
関係しているわけです。

 

各国通貨の弱体化と利上げの綱引き状態

 

国際金価格が上昇している背景について、もう少し考えてみます。

金に「守りの資産」としての機能があるのは、ひと言でいうならば、
世界中のどの通貨とも交換できるからです。

金は各国の通貨のように発行体を持たず、信用リスクもないため、宝飾品や
投資商品であると同時に、いわゆる「代替通貨」や「無国籍通貨」としての
性格も強いのです。

いま世界の基軸通貨は米ドルなので、とりあえず米ドルを持っていれば、
世界中のどこへ行っても買い物ができるし、投資もできます。

しかし、世界中の資産家や投資家たちは、米ドルの価値が下がった場合に備えて、
たとえばユーロなど他の通貨も持っておきたいと日ごろから考えています。

そして、米ドルもユーロも価値が下がる可能性が出てきた場合には、
いまのところ、これらに匹敵する他の通貨はないため、資産の一部を
一時的にであれ、金に換えておこうと考えるわけです。

同じように国家も、外貨準備として日ごろから米ドルやユーロなど複数の通貨を
保有していますが、そこに金も加えることで、外貨準備の保全を図っています。

さて、リーマン・ショック金融危機、そして新型コロナウイルスの感染拡大は、
世界にどのような事態をもたらしたでしょうか。

まず目立つのが、先進国を中心に、各国の中央銀行が大規模な金融緩和を
おこなったことです。

金融緩和とは極端な言い方をすれば、新たに紙幣を刷りまくって世の中に
ばらまくようなものです。

そこにコロナ禍対応として、各国の大規模な財政出動も加わります。

財政出動の財源は、その多くが借金(国債発行)でまかなわれます。

日米欧の先進国が金融緩和を続ければ続けるほど、財政出動の大盤振る舞いを
すればするほど、自国通貨である円やドル、ユーロの価値は薄まり、世界的な
信用は低下していきます。

過去10年ほどの間に、金価格はドル建てもユーロ建てもポンド建ても、
そして円建ても過去最高値を更新しました。

金が各通貨建ての過去最高値を更新するということは、逆にいえば、
金に対して各通貨が過去最安値になったことを意味します。

通貨の価値が下がると、何が起こるでしょうか。

ひとつには、通貨に対する信用不安から資金が逃げ出し、通貨安につながる
恐れがあります。

そしてもうひとつ、一般的にはインフレになりやすくなります。

先進国では長らくインフレをイメージしづらい状況が続いてきましたが、
コロナ禍から世界の社会と経済が正常化に向かう過程で、現在の米国のように
インフレ懸念が高まりつつある国もあります。

金はそもそも「インフレに強い資産」として知られており、代替通貨としての
役割も含めて、金が世界から注目されやすい舞台は整っているといえます。

注意が必要なのは、金が金利を生まない資産」であるということです。

米国が来年にも利上げを検討しているように、インフレ対策として各国が
利上げをおこなうと、金利が付く他の金融資産の投資魅力が高まるため、
相対的に金の魅力は弱まります。

大ざっぱにまとめると、国際金価格については各国通貨の弱体化という
長期的な上昇要因と、利上げが近いという短期的な下落要因が綱引きを
しているような状態であり、先行きを読むのは難しい展開となっています。

 

気合が入る洋楽

先日、アコギをテーマに好きな洋楽を選んでみて面白かったので、
今回は洋楽の第2弾です。

聴くと心が沸きたつ作品や、気合が入る作品をピックアップしてみました。

Walls Come Tumbling Down!スタイル・カウンシル/85年)

アルバム『Our Favourite Shop』に収録。彼らの作品では《Shout To The Top》や
《My Ever Changing Moods》の方が有名だと思いますが、いつ聴いても心が躍る
この曲が私にとってのNo.1です。

Bobby Jeanブルース・スプリングスティーン/84年)

アルバム『Born In The U.S.A』に収録。彼の疾走曲といえば《Born To Run》など、
他にもたくさんありますが、この曲はなぜか夕焼けが思い浮かんでくる、
センチメンタルさを兼ね備えたところが好きです。

Live Every MomentREOスピードワゴン/84年)

アルバム『Wheels Are Turnin’』に収録。バラード曲《Can’t Fight This Feeling》の
人気に隠れてしまったものの、独特の歌い回しや跳ねまくるピアノなど、個性に
あふれた名曲だと思います。

Lady Writerダイアー・ストレイツ/79年)

アルバム『コミュニケ』に収録され、シングルカット。このバンドとして
最も売れたアルバムは85年の『Brothers In Arms』ですが、私にとっては
『コミュニケ』を含む初期の3枚がすべてです。

Metal GuruTレックス/72年)

変なたとえですが、雀荘徹マンをして夜中に眠くなってきたとき、有線で
この曲が流れたら、途端に目が覚める…。「さあ、いまから祭が始まるよ」と
マーク・ボランが叫んでいるように聴こえます。

Toussaint L’Overtureサンタナ/71年)

アルバム『サンタナⅢ』に収録。17歳でバンドにスカウトされた天才少年、
ニール・ショーンのギターが唸りをあげ、カルロス・サンタナのギターに
絡みつくところは圧巻です。

Rock And Rollレッド・ツェッペリン/71年)

アルバム『レッド・ツェッペリンⅣ』に収録。同じハードロックの疾走感でも、
ディープ・パープルはいまひとつピンとこない私が、このツェッペリン
定番曲にはいつも満足するという不思議。

Get It While You Canジャニス・ジョプリン/71年)

ジャニスの遺作となったアルバム『パール』のラストに収録。同アルバム収録の
《Cry Baby》とともに、彼女がしゃがれ声でたたみかける言葉の嵐を浴びると、
いつも身体が熱くなってきます。

Aquarious/Let The Sunshine Inフィフス・ディメンション/69年)

メドレーになっている曲の後半から、突如として高揚感がどっと襲ってきます。
ウイングスの《Band On The Run》にも似たようなところがありますが、
もしかしてポールはこの曲からヒントを得たのでしょうか。

A Place In The Sunスティービー・ワンダー/66年)

《Yester-Me,Yester-You,Yesterday》などにも通じることですが、スティービーが
10代で歌った作品には、声を聴くだけで心に染みわたってくるエネルギーと、
切実さのようなものを感じます。

 

株価の割安さを判断する

株価という評価がいつも正しいとは限らない

 

株式投資をやるとき、私たちがどうしても自分で決めなければならない
「3W1H」があります。

●When=いつ買うか
●Where=どの証券会社を使うか
●What=どの銘柄を選ぶか
●How much=いくら買うか

このうち最も重要かつ、最も難しいのが「What」、つまりはどの銘柄を
選ぶかということです。

たとえば初心者なら、まず自分にとって馴染みのある企業を選ぶという
方法があります。

ふだん、よく買う商品や、よく使うサービス、あるいは憧れのブランドなど、
日常生活を振り返ってみて思い浮かぶ企業があれば、その株式を買ってみる。

それから、日常でこれといった接点はなくても、とりあえず知っている
企業を選ぶという方法もあります。

名前を聞いたことがない企業に比べれば、知っている企業のニュースは
頭に入ってきやすいし、事業内容もイメージしやすいのではないでしょうか。

いずれにしても、私たちは株式の銘柄を選ぶとき、そこに何らかの基準を
設けたいと考えるわけです。

馴染みがある、知っている、というだけでは投資の基準として心もとないし、
いまいち納得できないと思う人もいるでしょう。

そんな人は、いまいちど以下のことを思い出してみるといいかもしれません。

●投資の基本的な意味=金融商品を安く買って高く売ることで、
  差額分の利益を狙うこと

安く買えることは、きわめて重要な、銘柄選びの基準のひとつです。

さて、それでは「株式銘柄を安く買う」ためには、どうすればいいのでしょうか。

たとえば、ある銘柄の株価が800円だったとします。

この800円という数字は、たくさんの投資家が総意として、その企業に対して
くだした採点(評価)と考えることができます。

投資家が何をもって採点をくだしているかといえば、企業の収益性や競争力、
ビジネスモデルなどを自分なりに分析して、その経済的な価値(企業価値)を
割り出しているわけです。

しかし、株価がいつも企業価値を正確に反映しているかといえば、
そうとも限りません。

技術力が高くて、業績が安定している企業でも、認知度が低いといった
理由で過小評価されていることがあります。

逆に、業績が不安定でも、新しい技術が投資家の大きな期待を集めて
過大評価される場合もあります。

つまり、前述した800円という株価が、本来は1000円ぐらいでもいいのに
過小評価されていたり、500円ぐらいが妥当なのに過大評価されている
ケースがあるということです。


株価が一時的に安すぎたり高すぎる水準にあっても、中長期的にみると、
本来的な企業価値に見合った株価(適正な株価)に収束していく例も
少なくありません。

ある銘柄の株価が現時点で適正な株価より安いと考えられるならば、
その銘柄は「割安」の状態にあり、本来よりも安い株価で買うチャンスと
言うことができます。

そんな銘柄を見つけて投資することができれば、それが将来的に
適正な株価まで戻る(値上がりする)可能性は高く、収益につながる
期待が大きいわけです。

 

株価指標という客観性を持ち込むことの意義


ただし、ある銘柄の適正な株価を割り出すことは非常に難しいのが現実です。

そのため、株価が割安かどうかを判断する場合には、企業の利益や
自己資本などに対して現在の株価がどのような水準にあるかを示す
「株価指標」を使うのが一般的です。


代表的な株価指標として、PER(株価収益率)とPBR(株価純資産倍率)があります。

●PER(単位:倍)=株価÷EPS(1株あたり純利益)

         ※EPS=予想連結純利益÷発行済み株式数

●PBR(単位:倍)=株価÷1株あたり自己資本

         ※1株あたり自己資本自己資本÷発行済み株式数

PERとPBRについて、それぞれ突きつめて考えると、けっこう奥が深くて
難しいので、ここでは大まかな意味だけにとどめておきます。

株価を利益で割って求めるPERは、企業が稼ぎ出す1年間の利益の何倍まで、
その株式銘柄が買われているかを表します。

企業が急速に利益成長を遂げているような場合には、さらなる成長に対する
期待感から、投資家が先回りしてその株式を買うため、PERが高くなりがちです。

反対にPERが低ければ、その銘柄には投資家の買いがそれほど入っていない、
すなわちお買い得(割安)な可能性があると考えられます。

 

PBRの計算式に出てくる1株あたり自己資本は、企業の解散時に株主へ返還される
1株あたりの金額に相当します。

PBRが1倍を下回っている場合、その銘柄は「投資家がいま買って企業が解散すると、
それだけで儲かる」ことになります。

投資家にとって企業の利益成長を待つよりも、解散した方が手っ取り早く
儲かるというのは本来的には異常なので、PBRは1倍を十分に超えているのが
自然な姿といえます。

そのため、PBRが1倍を下回っているような銘柄は、いずれ通常の状態まで
株価が戻る(上がる)可能性が高く、お買い得(割安)と見なすことができます。

このように、PERもPBRも基本的には倍率が低い方が割安と考えられますが、
それぞれ注意点もあります。

PERが低い銘柄は、投資家が企業の成長を期待していないことの表れと
見ることもできます。

実際にPERは、成長産業の方が成熟産業よりも高くなりがちなため、
「成長産業に属する銘柄」と「成熟産業に属する銘柄」の間でPERを
比較しても、それほど意味はありません。

PBRが低い銘柄は、企業が投資家から過小評価されている場合もあれば、
資本効率が悪いなどの理由で、投資家から見放されている場合もあります。

ある銘柄の株価が割安かどうかを判断する場合には、PERやPBRを同業他社と
比較したり、業種ごとの平均値と比較するなど、多角的に「倍率の理由」を
探ることが大切です。

また、割安さという基準を使うことで、株式投資の納得度は大なり小なり
高まりますが、それがそのまま株式投資の成功につながるわけではありません。

投資が上手くいっても、いかなくても、そこに自分の好みや勘という主観だけでなく、
「数字という客観性」を持ち込むことに意義があるのだと思います。

それによって、私たちが株式投資の結果や途中経過を考える際に、ある程度の
根拠にもとづく冷静な分析や検証が可能になるからです。

 

アコギが良い感じの洋楽

ふと思い立って昨年から、自分の好きな洋楽をリストアップする作業を
始めました。

そのリストを見ていたら、ロックやポップスにジャンル分けされる
アーティストの作品で、とくにアコースティック・ギターが効いているな、
良い味を出しているなと感じる楽曲がいくつかありました。

たとえば、女性ボーカルの楽曲

Animal Instinctクランベリーズ/99年)

クランベリーズはジャンルとしては、オルタナティブ・ロックに分類されて
いるようです。90年代の前半には、《Dreams》や《Ode To My Family》が
ヒットして、ラジオでよく流れていました。

What’s Up(4ノン・ブロンズ/93年)

4ノン・ブロンズもジャンルはオルタナティブ・ロックだそうです。
バンド名は長い間、知らないままでしたが、曲は耳にこびりついていました。
CMで使われたらしいので、恐らくその影響だと思います。

The Last Chance Texacoリッキー・リー・ジョーンズ/79年)

デビュー・アルバム『浪漫』に収められた1曲。勝手なイメージですが、
この曲を聴くと、星空の下、どこまでも続くまっすぐな長い道を車で
走っているような気分になります。

Dreamboat Annie(ハート/76年)

デビューアルバム『Dreamboat Annie』に、3種類の異なるバージョンが
収められています。この後、いわゆる産業ロックに走ったことが信じられない、
可憐で爽やかな曲。ギターは妹のナンシー・ウィルソン。

 

      ✻      ✻      ✻      ✻

 

以下は男性ボーカルの楽曲です。


Sweetheart Like Youボブ・ディラン/83年)

アルバム『インフィデル』の1曲。プロデュースにダイアー・ストレイツ
マーク・ノップラーが関わっていたと後で知って、なるほど自分の好みに
合うわけだと納得しました。

I Was Only Jokingロッド・スチュワート/77年)

アルバム『明日へのキックオフ』のラストに収められた曲。これぞ「静と動」の、
コントラストの妙とでも言うのでしょうか。とくに間奏の途中で、アコギに
エレキギターが絡んでくるところが好きです。

If You Really Want To Be My Friendローリング・ストーンズ/74年)

アルバム『イッツ・オンリー・ロックン・ロール』の1曲。ニッキー・ホプキンスの
ピアノが素晴らしく、間奏の「泣きのエレキギター」はミック・テイラーのものと
思われます。(ミック・テイラーはこのアルバムを最後に脱退)

Tequila Sunriseイーグルス/73年)

アルバム『ならず者』の1曲。後に『ホテル・カリフォルニア』に収められた
《New Kid In Town》にも通じる、のどかなイメージがあります。個人的には
こういう曲をもっと演ってほしかったのですが…。

Rock’N’Roll Suicideデヴィッド・ボウイ/72年)

アルバム『ジギー・スターダスト』のラストに収められた曲。邦楽でいうならば、
吉田拓郎が「シャウト系」の曲を歌うときの雰囲気に似ているような気がします。
雑だけれど、気合満点。マイナー調だけれど、高揚感満点。

 

      ✻      ✻      ✻      ✻

 

以下の2曲は定番中の定番なので、とくにコメントはありません。

The Boxerサイモン&ガーファンクル/69年)

And I Love Herビートルズ/64年)

番外編として、映画音楽から1曲。

Laetitiaアラン・ドロン/67年)

映画『冒険者たち』のオリジナル・サウンド・トラックに収録。
悲劇のヒロインである、レティシアがタイトルになっています。
評価はB級だけれど、私の大好きな映画です。 

全体としてみると、どこか寂しいというか、もの哀しい雰囲気の曲が多いですね。

その意味でいうと、アコギが目立つわけではないのですが、次の曲も
同じような雰囲気で、私の好きなタイプに入ります。

Year Of The Cat(アル・スチュワート/76年)

傑作といわれているアルバム『Year Of The Cat』の表題作。
アコースティック・ポップスなどというジャンルがあることを、
この人で知りました。プロデュースはアラン・パーソンズ

 

書店に並ぶ作家と作品について

パロディの毒が、いま受けるという驚き

 

ひと頃に比べると書店の数が激減したので、仕方がないのかもしれませんが、
かつては書店の棚に置いてあるのが普通だった本を、見かけなくなるケースが
増えてきました。

私がさまざまな書店を頻繁にのぞいていたのは、90年代から2000年代の
初期にかけてです。

あくまでもその当時との比較ですが、たとえば棚から消えた作家として、
以下のような人たちが挙げられます。

川西蘭/『春一番が吹くまで』(代表作、以下同)
山川健一/『壜の中のガラスの船』
落合信彦/『石油戦争』
永倉万治/『ラストワルツ』
海老沢泰久/『監督』
景山民夫/『遠い海からきたCOO』

ノンフィクションでは、以下の人たち。

山崎浩一/『なぜなにキーワード図鑑』
栗本慎一郎/『パンツをはいたサル』


書店の棚に作家の名札は見かけるものの、本が見当たらない例としては

池澤夏樹の『マリコ/マリキータ』
久世光彦の『卑弥呼
五木寛之の『こがね虫たちの夜』『内灘夫人』『変奏曲』
川本三郎の『都市の感受性』
中島梓の『コミュニケーション不全症候群』

などがあります。

これらは私の愛読書だったのですが、ある時期にすべて売ってしまいました。

いまではアマゾンなどで古本を買うしか手がないというのは、何だか
寂しい気がします。

また、一時は村上春樹とともに棚の大きな部分を占領していた村上龍の作品も、
一部を除いて書店での在庫が激減しています。

なかには宗教的な問題や盗作疑惑などで、出版業界から干されたと思われる
作家もいます。

内容の時事性が強すぎて、あまりに時代と合わなくなったため、
置かれなくなったノンフィクションもあるでしょう。

それにしても、当時の人気を知る身としては、まるで存在しないかのような
現在の扱いぶりには驚くとともに、呆れるばかりです。

清水義範も、そんな「書店から消えてしまった作家」のひとりでした。

ところがコロナ禍で巣ごもり需要が拡大するなか、なぜか彼の著作が
注目されるようになったようです。

たしか今年(21年)に入ってからのことだったと思います。

清水義範『国語入試問題必勝法』講談社文庫)が書店の棚に、
しかも本の表紙が見えるかたちで目立つように並べてあるのを、
何度も目撃するようになりました。

私にとって驚きは2つあります。

まず、この本が「いま受けるのか」という驚き。

それから、この本が「受けた」であろうにもかかわらず、
彼の他の著作がほとんど書店に並ばないという驚きです。

『国語入試問題必勝法』は、いわゆる毒の効いたパロディ小説集です。

7つの短編のなかで、あるときは丸谷才一(※)の文体を、
あるときはボケ老人の振る舞いを、あるときは長嶋茂雄
はじめとするプロ野球解説者の語調をパロッています。

(※)丸谷才一:小説家、文芸評論家。一部の期間を除いて、
   独自の歴史的仮名づかいを用いたことで有名。

パロられた当人である丸谷才一が解説を書いているというのが、
また面白いのですが、そこには「揶揄(やゆ)と嘲弄(ちょうろう)が
まず思い浮かぶパロディの機能である」と記されています。

『国語入試問題必勝法』は実際のところ、話によっては揶揄と
嘲弄があまりに痛烈であり、なおかつそれが的を射ています。

とくに、ひとつ目の短編《猿蟹合戦とは何か》と、2つ目の短編で
表題作でもある《国語入試問題必勝法》のなかでは、日本の国語教育に
携わる予備校教師や大学教授などに対して、以下のような内容の、
まことに痛快な批判が展開されます。


《猿蟹合戦とは何か》

どう考えてもこんなものは国語の問題ではない。
…この駄文の題名が「目玉」で正解なのだと
子供に教え込むことは、感受性豊かな子供に
馬鹿養成ギプスをはめるのと同じ行為である


《国語入試問題必勝法》

…世の中には神秘的気分や幻想的な美を描いた詩や散文は
存在するのだが、国語問題の出題者のレベルでは、そういう
高度なものは理解できない。だから、出題するはずがない…。
奴らが理解できて、喜んで出題するのは故郷への思い、…
…くらいが関の山で、どちらにしても人間の心情のことばかり…。


こういう過激な内容は、現代の草食的な生き方を好む人々にとって
受け入れがたく、だからこそ清水義範の著作は書店に置かれなくなったのかな、
と私は勝手に思っていました。

意外にもそれが、そうでもなかった。しかし、だとしたら、です。

なぜ他の著作が一緒に書店の棚に並ばないのか。

 

揶揄や嘲弄が満載のぶった切り批評

 

いま私の手元にある『国語入試問題必勝法』は、いつ買ったのか忘れましたが、
奥付をみると「2019年3月8日第43刷発行」と書いてあります。

ちなみに私はこの本を、過去に3回ほど買い直しています。

ブックカバーには、清水義範作品として30種類のタイトルが記してあるので、
講談社文庫として少なくともこの30冊は、いちどは世に出たということでしょう。

ところが、巻末にある2018年12月15日現在の「講談社文庫目録」をみると、
清水義範の作品は『国語入試問題必勝法』をはじめとして6タイトルしか
記載されていません。

ということは、それ以外のタイトルについては、文庫としてすでに廃刊に
なったということでしょうか。

そのなかには、恐らく多くの清水義範ファンが『国語入試問題必勝法』と双璧の
名著に挙げるであろう、『永遠のジャック&ベティ』も含まれています。

これが書店に並ばないという、その辺の経緯がよく分かりません。

『永遠のジャック&ベティ』はいま私の手元にもなく、読んだのは20年以上前の
ことなので、細かい内容は忘れましたが、とにかく《ワープロ爺さん》という話が
あまりに面白すぎて、涙を流しながら笑ったことは覚えています。

もしや、この《ワープロ爺さん》は、老人をバカにし過ぎているということで、
自主規制の対象にでもなっているのでしょうか。

      ✫      ✫      ✫      ✫

 

パロディではありませんが、揶揄や嘲弄が満載の1冊として私が好きな本に、
斎藤美奈子『文壇アイドル論』(文春文庫)があります。

村上春樹俵万智吉本ばなな林真理子上野千鶴子立花隆
村上龍田中康夫という、おもに80年代~90年代に一世を風靡した
作家や言論人を取り上げて、彼らがなぜアイドルになったかを考察した
ユニークな試みです。

たとえば、俵万智の章。

デビュー作の短歌集『サラダ記念日』(1987年)が大ヒットしたことで、
世の中に短文人気が広がり、それが90年代の各種「サラリーマン川柳」や
『日本一短い「母」への手紙』、相田みつをの『にんげんだもの』などの
ブームにつながったと、まずは解説しています。

そのうえで、それら90年代にブームとなった3つの作品のなかから
一例ずつを取り上げ、以下のようにぶった切ります。

洗練もワザもなし。こんなものが90年代に入ってからベストセラーに
なったのかと思うと、めまいがします。

が、これらを「ええ詩やなあ」と思っているのは、『サラダ記念日』の
読者と同じ層。

相田みつを現象」をつくった人たちがその前にはおそらく
「サラダ現象」を
支えていたのです。

村上龍の章では、彼について書かれた吉本ばなな田口ランディの文章を
それぞれ紹介したうえで、またまた以下のようにぶった切ります。

ワタシは龍さんとお友だちなんでーす、と読者に自慢してるだけ。

ばななやランディはそれでもいちおう作家です。

中学生のファンではあるまいし、…ここにも村上龍の「人をバカにさせる力」が
働いています。

斎藤美奈子の著作は他にも何冊か読みましたが、『文壇アイドル論』をしのぐ
作品はないような気がします。

『文壇アイドル論』を含めて、彼女の文章は痛快な部分が多い一方で、
社会背景や広告・マーケティングの側面など、分析があまりに多角的なため、
読んでいて疲れてしまうところがあります。

現在のところ、書店には置かれていることが多いようなので、こういう種類の
文章に対して、たとえばいまの若者たちがどのような印象をもつのか、
ちょっと興味をそそられます。