幽霊に関する2つの新説
三木大雲という、俗に「怪談和尚」と呼ばれているお坊さんがいます。
彼がYouTubeで、「お経」に書かれている内容を丁寧に説明しているのですが、
それを観て、私はかなり驚きました。
お釈迦様がかつて、こんなことを言ったそうです。
--自分がこれまでいろいろな人の質問に答えたり、話してきた内容は、
すべて「方便」だった。
--いまから方便ではなく、本当に自分が思っていることを話す。
そう宣言したお釈迦様が、大勢の信者を前に話した内容を克明に記録したのが、
いまに伝わる「お経」だというわけです。
「方便」については、手元の辞書にこうあります。
①仏教で、衆生を真の教えに導くために用いる仮の手段。
②ある目的を達するために用いる便宜的な手段。
「うそも方便」といわれることから、方便には多少、「まやかし」的な
要素はあっても、決してネガティブな意味合いだけのもの(手段)では
ないことが分かります。
しかし、いずれにしても方便は方便であり、世の中には方便とは別に、
真実や真理(と思えるものや手段)がある、ということなのでしょう。
私は最近、いわゆる「幽霊」や「心霊現象」と呼ばれるものについて、
2つの新説を思いつきました。
それらが単なる方便なのか、はたまた真理に近いものなのか、
自分でもよく分かりませんが、どちらも人間の「心持ち」に関係しており、
私としては「そう考えると納得がいく」という類いの話です。
《第1説:幽霊はゴキブリである》
部屋の壁や天井に突然、ゴキブリが現れたら、多くの人は驚き、
おののくことでしょう。
私の場合は、まず「クソッ」と怒り、「なんでやねん」とつぶやきながら、
ゴキブリを叩き潰しにかかりますが、人によっては恐怖のあまり部屋を
飛び出すかもしれません。
多くの人にとってゴキブリは、そこに本来「いるはずがないもの」であり、
なおかつ、「いてはいけないもの」です。
そういう日常のなかの異物が突如として現れたから、人は驚き、
恐怖を感じるのだと思います。
幽霊や心霊現象に対しても、多くの人はゴキブリと同じ感覚を
抱いているのではないだろうか、というのが私の結論です。
それが人間の姿をして動き回る幽霊であろうと、まったく動かない
不気味な人形であろうと、そこに「いるはずがない」「あるはずがない」
「いてはいけない」「あってはいけない」ものが現れたとき、
多くの人は恐怖を感じます。
でも、その幽霊や心霊現象が自分にとって馴染みの深いものだったり、
喜ばしいものだったとしたら、どうでしょう。
「いるはずがない」のだけれど、別に「いてくれてもいい」ものだったならば…。
たとえば、自分がかつて大好きで、すでに亡くなってしまった人や飼い猫が
突然現れたとき、私たちは恐怖を感じるものでしょうか。
実際にそういう経験がないので何ともいえませんが、私は恐らく
懐かしさを感じて、「しばらくここにいてほしい」と願うような気がします。
ゴキブリではなく、七色に光るタマムシが部屋に現れた場合には、
私なら歓喜します。
私にとってタマムシは、そこに「いるはずがない」としても、
全然「いてくれてもいい」ものだからです。
世の中には、ゴキブリだって部屋のなかにいてくれて全然構わない、
という人もいるかもしれません。
要するに、自分との関係性によって、あるいは自分の「心持ち」ひとつで、
幽霊や心霊現象は恐怖の対象にもなるし、懐かしさや愛しさの対象にもなる
ということでしょう。
《第2説:幽霊は先輩である》
最近は、いわゆる事故物件にからんだ幽霊話をよく耳にします。
これは当然のことながら、ごく普通の人びとが、たまたま事故物件に住むこととなり、
そこで心霊体験をしてしまったから怖い、という話です。
それでは、「普通ではない人」が事故物件に住んで、心霊体験をした場合は
どうなるでしょうか。
たとえば、病気で余命いくばくもない人や、何らかの理由で近々自殺しようと
考えている人が、たまたま事故物件に住んで幽霊に出会ったとしたら、
いったい何を思うでしょう。
もしも私がその立場だったら、「良き先輩に出会った」と感じるような気がします。
つまり、「もうすぐ私もあなたと同じ道をたどります」という、
シンパシーのようなものを感じるのではないかと思うのです。
死を覚悟したり、死期を悟った人にとって、幽霊や心霊現象はいわば
「近い将来の自分」です。
一方で、「自分はまだまだ生き続ける」と勝手に決めつけている人にとって、
幽霊はとんでもない異物として存在します。
しかし、実はそういう普通の人びとも、いずれは全員死んでいくのだから、
幽霊は誰にとっても先輩であると言えるわけです。