解✦談

解りやすく、解きほぐします。

バランス型投信の真実

4資産への投資も手入れも手間がかかる

 

これから投資を始めようという人はもちろん、すでに投資を始めている人のなかでも、
投資に「安全」や「安心」を求めるニーズは大きいようです。

私たち一般の個人にとって、投資の安全や安心とは、要するに何なのでしょうか。

たとえば、将来についてはこんな内容が考えられます。

●投資した資金が将来的に減らないこと(少なくとも元本割れは避けたい)

●投資のリターンが、将来的に当初の目標額を下回らないこと
(できれば予定通りのリターンが実現してほしい)

身も蓋もない言い方になりますが、これらは結果論なので、現段階であれこれ
心配してみたところで何の意味もありません。

むしろ将来的な投資の結果は誰にも予測できないし、管理もできないということを、
いまのうちからよくよく心得ておく必要があります。

そもそも将来、本当にお金が必要なときが来て、投資対象を換金する必要に
迫られたら、その時点で元本割れしたとか、目標を達成できなかったなどと
言っている余裕もないはずです。

自分の将来など、いつ何が起こるか、まったくもって分からないものであり、
投資とは、そういう私たちの「分からない将来」に備えてやるものです。

だからこそ、投資はできるかぎり余裕資金でやるべきだし、将来的にあらゆる
事態を想定しておくべきだと言えます。

もうひとつ、安全や安心にはこんな内容もあるかもしれません。

●投資対象となる株式や債券などの価格変動率(価値が上下にぶれる幅)が、
  できるだけ小さいこと

これは投資の途中経過に関するもので、できるだけ波乱のない安定した投資状況が
続いてほしいという願望でしょう。

言い換えれば、投資対象の価格が大きく下落する恐怖から逃れたいということです。

残念ながら、投資対象の価格変動率が低ければ、資産を大きく増やすことは
できません。そして価格変動率のうち上昇だけが高くて、下落は低いというような、
都合のよい投資対象はありません。

私たちが資産を大きく増やしたければ、投資の途中で大きな下落を経験する恐怖は、
いやでも克服しなければならないわけです。

投資に100%の安全や安心はありませんが、安全や安心を高める方法ならあります。

以前、本ブログの《分散投資の意味》で紹介した、国際分散投資です。

繰り返しになりますが、あるデータによると、日本株」「日本債券」
「外国株」「外国債券」という4つの資産に25%ずつの均等投資を10年間
続けた場合、「1970年(1月)~79年(12月末)」の10年間に始まって、
「2011年(1月)~20年(12月末)」の10年間まで、全部で42ケースあった
どの10年間をとっても、「10年間の投資成績」はすべてプラスになっています。

これならば、投資資金の50%を株式に配分してリターンの向上を図りながら、
少なくとも元本割れは例外なく避けられるのですから、まことにありがたい
投資方法といえます。

ただし、国際分散投資では、私たちが自分で4資産への投資(4種類の
インデックス型投信などを利用するのが一般的)を個別におこなう
必要があるほか、月末ごとにリバランスという「手入れ」も必要になります。

リバランスとは、投資によって増えたり減ったりした資産を、当初の25%に
戻す作業です。

たとえば、ある月に日本株への配分比率が28%に高まり、逆に外国債券への
配分比率が22%に低下したような場合、月末に日本株の3%分を売却して、
その資金で外国債券を新たに3%分だけ購入することで、再び4資産がすべて
25%ずつの配分になるように調整します。

4資産への投資も、手入れ作業も、ふつうの個人にとっては
非常に手間がかかり、面倒くさいことです。

そこで、国際分散投資とリバランスをまとめてお任せできる、
バランス型投信が重宝されるようになったのです。

 

趣旨や目的から逸脱した商品が目立つ

 

「つみたてNISA」の対象商品として、実はいちばん多く用意されているのが
バランス型投信です。

今回、改めてその商品ラインナップを見てみて驚きました。

REIT不動産投資信託)なども含めた5資産~8資産に投資するタイプが
非常に多く、さらには株式や債券など特定の資産への配分を多めに設定した
タイプや、各資産への配分比率を年が経つとともに自動的に組み替えていく
「ターゲットイヤー型」というタイプも目立ちます。

つまり、代表的な4資産への均等投資という国際分散投資の「直球」で勝負する
商品よりも、「変化球」で勝負する商品の方が圧倒的に多いのです。

これには投資家のニーズが大きく関係しています。

できるかぎり低リスクで高リターンを求めようとする個人や、徹底して
安全・安心を求める個人など、さまざまな投資家のニーズに応えるため、
運用会社は新たな投資対象を加えたり、各金融資産への投資配分にわざと
偏りをもたせたりと、さまざまな工夫を施して新タイプのバランス型投信を
開発してきたわけです。

最近では、先物取引を使ってレバレッジ(てこの原理)を効かせ、通常の
バランス型投信の3倍程度のリターン獲得をねらうタイプやら、あらかじめ
基準価額の下値ラインを決めておき、投資家にその下値ラインでの換金を
保証するタイプやら、変化球にもますます磨きがかかっています。

全体的にアセットアロケーション型」と呼ばれるタイプが増えていることも、
最近のバランス型投信に目立つ傾向といえます。

これは、相場の状況に応じて株式や債券への投資比率を機動的かつ大胆に
変更するタイプで、株式相場の下落が続くような局面では、リスクを抑える
効果が高いといわれています。

その半面、株式の上昇相場で大きなリターンを獲得するのは難しいようですが、
価格変動率が小さいという特徴は、冒頭にあげた「個人が求める安全・安心」に
つながります。

さて、ここで考えてみたいのは、バランス型運用(国際分散投資)の本来的な
意義についてです。

値動きの性質が異なる複数の資産に、十分にバランスよく投資することで、
将来的に相場がどのように動いたとしても、柔軟に対応できる状態をつくっておく、
というのがバランス型運用の趣旨であり、目的でもあります。

結果として前述のとおり、代表的な4資産に均等投資を続ければ、
少なくとも元本割れを防げることは統計的に証明されています。

しかし、そこに新たな投資資産を加えたり、投資比率に偏りをもたせたり、
さまざまな工夫を加えるほどに、本来あるべき形のバランスは崩れていきます。

また、相場の状況に合わせて投資比率を機動的に変更するというのは、
あたかも「リスク管理に力を注いでいる」ように見えて、その実、
タイミング投資をおこなっていることにほかなりません。

タイミングを測って投資するのがプロにも難しいことは、アクティブ型投信が
インデックス型投信になかなか勝てないことをみれば明白でしょう。

直球型の国際分散投資がわざわざ4資産に25%ずつの投資を固定するのは、
タイミング投資の弊害を排除するための、苦肉の策でもあるわけです。

そう考えると、投資の途中で資産配分比率を大きく変えるのは、本来の目的に
逆行しているといわざるを得ません。

バランス型運用とは、各金融資産の将来的な相場状況が予測できないことを
率直に受け入れ、そうした不確実性に対処するために生み出された手法です。

その意味からすると、現状のバランス型投信に本来の趣旨や目的から逸脱した
商品が目立つという真実は、残念でもあり、いささか心配でもあります。

 

いま聴きたい拓郎の曲

吉田拓郎のNo.1アルバムは私のなかで、いまもむかしも変わりません。

19歳のときに初めて聴いた、『いまはまだ人生を語らず』です。

残念ながら、レコード会社の自主規制で廃盤となってしまい、いまでは
このアルバムをCDで聴くことはできません。

ただ、いくつかの曲は拓郎のベスト盤に収録されているほか、YouTube
少し音質が悪いものの、アルバムが丸ごとアップされていたので、久々に今回、
全曲を聴いてみることにしました。

実はひとつ、知りたいことがあったのです。

半年ほど前に、「いま聴いて心地よい拓郎の曲ベスト10」を選んでみたのですが、
そこに『いまはまだ人生を語らず』の収録曲(全12曲)はたったの1曲しか
入りませんでした。

「好きなアルバム」と「好きな曲」は、必ずしもリンクするとは限りません。

しかし、自分のなかで拓郎の曲の好みが、以前と変わってしまったことは
確かだと思います。いったい自分のなかで何が変わったのだろう?

改めて聴いてみて、その答が解りました。

誤解を恐れずにいうと、『いまはまだ人生を語らず』の収録曲は、
いずれも「男の曲」、あるいは「男が歌うべき曲」なのだと思います。

私もカラオケで女性ボーカルの曲を好んで歌う方ですが、それでも
「これはやはり女性が歌うべき曲だな」と感じることがよくあります。

たとえば中島みゆき《ミルク32》は、自分も含めて男には歌ってほしくない。

山下久美子なら、《バスルームから愛をこめて》は自分の声でも何とか誤魔化しが
効くけれど、《抱きしめてオンリーユー》は男の声ではどうにもしっくりこない。

同じように、『いまはまだ人生を語らず』に収録されている
《ペニーレインでバーボン》《人生を語らず》《シンシア》などは、
男の声でちょっと「ぶっきらぼう」に歌ってこその曲だと思うのです。

つまり、いまの私には、そういう「男の曲」とは別に、もっと聴きたい種類の
曲があるということです。

 

       ✻      ✻      ✻      ✻

 

私が選んだ拓郎ベスト10の上位2曲は、1位が《赤い燈台》
2位が《春になれば》です。

もともと《赤い燈台》小柳ルミ子に、《春になれば》は小坂一也に提供された曲で、1977年のアルバム『ぷらいべえと』のなかで拓郎がセルフカバーしています。

ちなみに、私は小坂一也という歌手について知らないし、小坂一也バージョンの
《春になれば》も聴いたことがありません。

正直にいって、上記の2曲とも拓郎の声は全盛時の迫力や勢いがなく、
曲の完成度としては低い方だと思います。

ただし、歌詞はいずれも私の好きな作詞家が書いています。

まず《赤い燈台》の歌詞は、岡本おさみ

拓郎が岡本おさみと組んでつくった曲は、大きく2つのタイプに
分けることができます。

①社会派メッセージソング:《祭りのあと》《おきざりにした悲しみは》《落陽》
  《ひらひら》《アジアの片隅で》など

②叙情派ラブソング:《花嫁になる君に》《旅の宿》《こっちを向いてくれ》
  《蒼い夏》《歩道橋の上で》など

このほか、《制服》《ビートルズが教えてくれた》《君去りし後》《竜飛崎》など、
①に属する曲が圧倒的に多く、森進一が歌ってレコード大賞をとった襟裳岬も、
学生運動が終わった後の戸惑いや所在なさを描いたなどと言われることから、
①に属すると考えていいでしょう。


一方で②に属する曲は少なく、拓郎は2018年に出した『From T』という
ベスト盤のライナーノーツに、《歩道橋の上で》について自身でこんなことを
書いています。

…しかしその後は彼の描く世界が「旅の宿」的なラブソングに向かうことは少なく、
…僕はフォークと呼ばれるブームにはほとほと嫌気がさしていたので、
   岡本おさみ作詞の世界から距離をおこうとした。
   月日がずいぶんと流れた。
…ある日1編の詞が届いた。
 「あ!これはあの匂い」と僕はひざを叩いた。

そんな数少ない叙情派ラブソングのひとつが、《赤い燈台》なのです。

もちろん楽曲の好みには歌詞だけでなく、曲も大いにかかわってきます。

私は最終的に拓郎の楽曲のなかで、《赤い燈台》のような優しく、
ほのぼのとした曲調を強く求めるようになった、ということなのでしょう。

 

2位にあげた《春になれば》は、喜多條忠の作詞です。

神田川など、かぐや姫への提供作品があまりに有名ですが、
拓郎とのコンビでは他の歌手への提供曲で多くの名作を残しています。

たとえば、中村雅俊《いつか街で会ったなら》キャンディーズ
《あなたのイエスタデイ》は、曲も歌詞もどこか哀愁が漂い、それでいて
心が暖かくなるという点で、《春になれば》に通じるところがあります。

シングルレコードだった《いつか街で会ったなら》のB面には、
拓郎作曲・山川啓介作詞の《さすらい時代》が収録されていて、
これも同様のテイストを感じる作品です。

《いつか街で会ったなら》は75年、《あなたのイエスタデイ》は77年。
そして《赤い燈台》《春になれば》も77年。

74年の『いまはまだ人生を語らず』、75年のつま恋オールナイト・コンサート、
およびフォーライフ・レコードの設立を経て、拓郎はどちらかといえば
「フォーク色」も「ロック色」も薄める方向に変わっていったんだと思います。

そこでは恐らく、他人への楽曲提供という機会が拓郎自身に大きな影響を与えた。

そして、ちょうどその変化しつつある時期に書かれた曲たちは、なぜか現在の
私の心を揺さぶる力が強いようなのです。

 

殺人事件が起きないミステリー

天の配剤にみる人間への深い信頼

 

「殺人事件が起きないミステリー小説」の面白さを、北村薫によって知りました。

北村薫の小説にはシリーズものの短編集がいくつかあり、
そのうち「円紫さんと私シリーズ」の初期に属するのが、
『空飛ぶ馬』と『夜の蝉』(いずれも創元推理文庫)の2冊です。

主人公である女子大生の「私」が、身の回りで起こった不思議な出来事を、
知り合いの落語家・円紫さんに謎解きしてもらう内容になっていて、
不思議な出来事は、たとえば以下のようなかたちで提出されます。

赤頭巾(『空飛ぶ馬』に収録)

歯医者の待合室で、「私」は隣に座った中年の女性から突然、奇妙な話を
聞かされる。その女性がある日曜日に幼馴染みの友人宅へ行ったときのこと。
友人が「最近、日曜日の夜9時になると、家の前の公園に赤頭巾が出る」と言うので、
夜9時に2階の部屋から公園をのぞかせてもらったら、実際に赤いレインコートを
着た女の子が立っていた。

空飛ぶ馬(『空飛ぶ馬』に収録)

「私」の隣家の奥さんが、ある晩に幼稚園の前を車で通ったら、つい先日、
園の庭にコンクリートで固めて設置されたばかりの「木馬のおもちゃ」が
消えてなくなっていた。ところが次の日の朝、子どもを幼稚園まで送っていくと、
そこには元の場所にきちんと木馬が置いてあった。

《赤頭巾》では「不倫と侮蔑、嫌悪」が、《空飛ぶ馬》では
「結婚と愛情、いたわり」が、それぞれの謎を解くカギになっています。

円紫さんの見事な謎解きを聞きながら、「私」は人間のさまざまな心のあり様や、
人間関係の尊さ、恐ろしさに気づいていきます。

いわば「私」の成長物語にもなっているわけですが、このシリーズの素晴らしさは、
話が展開される順番にもあると私は思います。

円紫さんと私シリーズの第1作である『空飛ぶ馬』には5つの短編が収録されていて、
《赤頭巾》は4つ目、《空飛ぶ馬》は5つ目の話にあたります。

「私」が20歳の誕生日を迎えた12月25日に、渋谷の喫茶店《空飛ぶ馬》
謎解きをしながら、円紫さんは「私」にこんなことを言います。

「天の配剤ということをあなたは信じますか」

「僕はそういう運命の好意を信じたいですね。この間の《赤頭巾》に続いて、
 同じくあなたの町が舞台です。人が生き、人と触れ合ううえでの2つの出来事が、
 そこに順序よく示されているような気がします」

「どうです、人間というのも捨てたものじゃないでしょう」

ここに出てくる「天の配剤」とは、「神様は物事をほどよく組み合わせて、
私たちの前に提出してくれる」というような意味でしょう。

人間のもつ「毒」や「悪」の部分にも目を向けながら、ひとつの短編小説集を
このように前向きな言葉と印象で締めくくる--。

そこには北村薫の、人間に対する深い信頼が感じられて、清々しい読後感が残ります。

まったくの蛇足ですが、《空飛ぶ馬》にはこんな一節も出てきます。

大学の男の子のなかには、中日ドラゴンズを後楽園、神宮、横浜と追いかけ、
名古屋にも足を運んだという人がいる…。

私はまさに大学時代、これと同じことをしていました。

何しろ、サークルが「CDFC(中日ドラゴンズ・ファンクラブ)」だったもので。

『空飛ぶ馬』の単行本が出たのが1989年、私が大学に在籍していたのが
1984年4月~87年3月、そして北村薫と私は大学が同じです。

CDFCは私が知るかぎり、88年までは学内で活発に活動していたはずなので、
もしかしたら、私より16歳年上の北村薫はどこかでCDFCのうわさを聞きつけて、
書いてくれたのかもしれません。

 

いつも寄り添っていてくれた姉の心

 

同じく円紫さんと私シリーズの第2作である『夜の蝉』には、3つの短編が
収録されていて、その2つ目が《六月の花嫁》、3つ目が《夜の蝉》です。

この順番も見事というほかありません。

例によってそれぞれ円紫さんの謎解きがあるのですが、この2つの話ではむしろ、
謎解き以外の「人間もよう」、あるいは人間の心への気づきが読みどころに
なっていると思います。

《六月の花嫁》では、「私」の仲の良い友人である江美ちゃんが、ある秘密を
守るために結果として「私」を利用するようなかたちになってしまったこと、
そして、そのことを心の中で一生懸命、「私」に詫びていたことが描かれます。

《夜の蝉》では、「私」の実の姉が、あるときから「私」をいじめるのをやめて、
逆に何かと面倒をみるようになった理由が、姉本人の口から明かされます。

「あんたがわたしに飛びついてきたんだよ」と姉から言われて、しばらく
何のことか分からなかった「私」は、やがてその瞬間を思い出します。

小学校に上がる前の、ある夏の夜に、大きなアブラゼミが部屋に侵入してきた
ときのことでした。

そこで展開される姉妹の会話が、しみじみします。

「--あの時にね、あんたは何度も同じ叫び声を上げた」
「どんな?」
「あんた、わたしを呼ぶ時に何ていう?」
私はその言葉を口にした。
「それだよ。それを何度も繰り返したの。…あんたは二十になった。
 だけど、今でもそういうふうに私のことを呼ぶだろう。…」

そして、姉は最後にこう言ったのです。

「--結局はそういうことだよ。あんたはわたしをそう呼び、私はそう呼ばれる。
 あの時に気がついたのはそれなんだよ。それから、わたしは変わった。…
 人間が生きて行くってことは、いろんな立場を生きて行くっていうことだろう。
 かかわりとか役割とか、そういったことを理屈でなく感じる瞬間て必ず
 来るものだと思うよ」


《六月の花嫁》では、友人がひと足早く結婚して、ある意味で「私」から
遠いところへと旅立ってしまった。

しかし《夜の蝉》では、いままでずっと遠い存在だと思ってきた姉の心が、
実はいつも近くに寄り添っていてくれたことを、「私」は気づかされます。

こういう締めくくり方をしてくれて「ありがとう」と、私は北村薫
言いたくなります。

 

為替について、何をどう考えるか?

円高は輸入に、円安は輸出や海外投資に有利

 

私たち日本人が「為替」と聞いてまず思い浮かべるのは、「円高」あるいは
「円安」という言葉でしょう。

そもそも円高や円安は、私たちの日常生活にどのような影響を及ぼすのでしょうか。

一般によく言われるのは、こんなことです。

円高になると → 輸入品が安くなったり、海外旅行先で安く買い物ができるといった
  メリットがある。

●円安になると → 私たちが海外の金融商品に投資している場合、リターンが増加する
  メリットがある。

上記のメリットは、円高と円安が逆になれば、そのままデメリットとなります。

また、輸出で稼ぐ日本企業にとっては、円高は売り上げが減少するので
デメリットとなり、円安はその反対でメリットとなるというのが一般的な説明です。

いまさらという感はありますが、こうした関係について、具体的な数字を使って
確認しておきます。

まず、輸入と輸出について。

現在の為替レートが1ドル=100円だったとして、日本が米国から、
ある製品を100ドルで輸入したと仮定します。

このとき、日本から米国に支払う円の金額は「100円×100ドル=1万円」です。

為替がその後、1ドル=90円まで円高になった場合、同じ製品を100ドルで
輸入すると、支払う円の金額は「90円×100ドル=9000円」で済むことになります。

つまり、輸入では円高が進むと有利になるわけです。

現在の為替レートが1ドル=100円だったとして、日本が米国に、
ある製品を100ドルで輸出したと仮定します。

このとき、米国から日本に支払われる円の金額は「100円×100ドル=1万円」です。

為替がその後、1ドル=110円まで円安になった場合、同じ製品を100ドルで
輸出すると、日本が受け取る円の金額は「110円×100ドル=1万1000円」まで
増えることになります。

つまり、輸出では円安が進むと有利になるわけです。


次に、私たちが海外の金融商品に投資する場合。

為替レートが1ドル=100円のときに、ある米国株を100ドルで購入したと仮定します。

このとき、私たちが支払う円の金額は「100円×100ドル=1万円」です。

為替がその後、1ドル=110円まで円安になってから、私たちがその米国株を
換金すると、どうなるでしょうか。

米国株の株価が購入時と同じく100ドルだった場合、私たちの手元には
「110円×100ドル=1万1000円」が戻ってきます。

現地の通貨建ての株価(上記の例では米国ドル建ての株価)がまったく動いて
いなくても、単に為替レートが円安になっただけで、それを換金して円建てに
戻したときの金額は自動的に増えることになります。

つまり、私たちが海外の金融商品に投資する場合には、円安が進むと
有利に
なるわけです。

 

実際に円安が進むまで海外資産を持ち続ける

 

さて、こうした為替に関する基本的な事項を確認したうえで、
改めて考えてみたいことがあります。

私たち日本の個人が、円以外の外貨や、外貨建ての金融商品に投資する
意味とは何でしょうか。

以下のような内容が考えられます。

①為替レートの変動を利用して、為替差益を得る(投資収益の追求)

②海外の株式や債券などに投資することで、日本国内よりも高い投資収益や
 金利収入をねらう(投資効率の向上)

③将来的な円安やインフレなどによる円の購買力の低下に備えて、
 円以外の通貨も持っておく(リスクの回避)

①の為替差益とは前述のとおり、私たちが海外の金融商品に投資している場合に、
為替レートが円安になれば自動的に得られる「リターン増加分」のことです。

②は要するに、海外には日本国内よりも高いリターンが期待できる株式や
債券があるので、それらにも分散投資することで、全体的な投資成績の底上げを
図りましょうということです。

私たちはふつう、最終的には海外の金融商品を換金して、円に戻して使おうと
思うはずです。

その場合、円高になるとその分だけ自動的にリターンが削られて、たとえ海外の
金融商品から高いリターンが得られたとしても、それが台無しになってしまう
恐れがあります。

だから、②については為替レートが将来的に少なくとも現状維持か、できれば
円安になることが条件といえます。

③については、日本の食料自給率が37%(2020年度、カロリーベース)、
エネルギー自給率が11.8%(2018年度)といった数字が大いに関係してきます。

日本は食料の6割以上、石油や天然ガスなどエネルギー資源の9割近くを
海外からの輸入に頼っていることになりますが、それらの輸入代金は
世界の基軸通貨である米ドルで支払われるのが一般的です。

将来的に円安が進むと、食費や電気・ガスなどの公共料金といった日常生活に
欠かせないコストが値上がりして、私たちの家計が圧迫される恐れがあります。

その際に、資産の一部を外貨建てで持っていれば、円による支出の増加分を、
円安による外貨建て資産の値上がり分によって補うことが可能になります。

逆にいうと、将来的に円安やインフレにならない可能性が高いのならば、
わざわざ為替変動リスク(円高になるとリターンが削られるリスク)を
負ってまで、外貨を持つ意味はありません。


こうしてみると、私たち日本の個人が外貨や外貨建ての金融商品に投資するのは、
あくまでも将来的に円安が進むことを前提にしていることになります。

高い確率で将来、いまよりも円安になりそうだから、それを利用して投資の
リターンを増やす(上記の①②)と同時に、円安による購買力の低下にも
備える(上記の③)ことが、外貨や外貨建ての金融商品に投資することの
意味であり、目的でもあるわけです。

その目的を十分に果たすためには、日常生活のなかでよほど緊急の資金需要が
発生するなどの事情がないかぎり、当初の前提どおりに円安が進む日まで、
私たちはいちど投資した外貨や外貨建ての金融商品を持ち続けるべきでしょう。

ところで、為替の動きを予測するのは専門家でも難しいと言われています。

一般論としては、少子高齢化が進むなかで日本の経済成長率がこれから
鈍化していくことは避けられないため、中長期的にみて予想以上の円安になる
可能性があることは確かでしょう。

しかし実際に円安が進むとしても、それがいつ頃、どの程度まで進むのか、
現段階では誰にも分からないのが実情なのです。

だとすれば、とりあえず将来的な円安に備えて、無理のない範囲で準備だけは
整えておくというのが、私たちにとってのベストな選択ではないでしょうか。

予想以上の円安になるまでの期間において、私たちが投資に万全を期すという
意味では、日本国内の株式や債券への投資もやっぱり必要です。

と同時に、投資資金の一部を海外の株式や債券にも振り向けておく。

結局のところ、こうした国際分散投資の考え方が、最も無難かつ、最も有効な
手段といえるような気がします。

 

解らなすぎる「時間」の話

640年の時を超えてやってくる

 

宇宙には数え切れないほどの星があるので、私たちが見る夜空は本来、
星によって隙間なく埋め尽くされているはずです。

ときどき写真などで見かける「銀河」と同じように、夜空全体が煌々と
輝いて見えてもいいはずなのです。

でも実際には、「満天の星」が見渡せる空気のきれいな山や海へ行っても、
せいぜい天の川が目立つぐらいで、夜空はやっぱり暗いし、たくさんの
隙間が確認できます。

その大きな理由は、宇宙がいまも膨張し続けていて、多くの星が地球から
どんどん遠ざかりつつあるからだそうです。

自分から遠ざかっていく物体から出た光は、音の場合と同じく、
ドップラー効果」によって波長が長くなります。

波長の長い光は赤く見えますが、地球から遠ざかる多くの星から出た光は波長が
長くなりすぎて、人間の肉眼では見えないマイクロ波になってしまっています。

つまり、夜空は実際に暗いのではなく、人間の目には暗くしか見えないのです。

それほどまでに、宇宙の星の多くは、地球から遠いところにあるわけです。

私たちにお馴染みの太陽や月は近いところにありますが、それでも光が届くのに、
それなりの時間がかかります。

太陽から地球までは1億5000万km、月から地球までは38万kmの距離があります。

光の速さは秒速30万kmなので、太陽から出た光は地球へ届くのに約8分かかり、
太陽光を反射した月の光が地球へ届くのには約1.3秒かかることになります。

言い換えれば、地球上にいる私たちはどう転んでも、太陽については約8分前、
月については約1.3秒前の姿しか見ることができないということです。

私たちは普段、太陽や月を見ながら、このようなタイムラグについて
意識したりはしません。

それは日中の太陽や、夜間の月が、周期的に私たちの前に現れるからだと思います。

それでは、普段はない(見えない)ものが突然、目の前に現れたとしたら、
どうでしょうか。

冬の星座として有名なオリオン座の、私たちから向かって左上に位置する
ベテルギウスという星は、いろいろな意味でロマンにあふれる魅力的な存在です。

ベテルギウスは直径が太陽の1000倍、質量が太陽の20倍もある赤色超巨星で、
さまざまな観測結果から、恒星の一生の晩年にさしかかっていると言われています。

 

太陽の8倍以上の質量がある星の多くは、一生の最後に超新星爆発」(※)
起こすので、ベテルギウスもいずれ超新星爆発を起こして一生を終えることは
間違いありません。

超新星爆発:自らの重力に耐えられなくなった星が一気にグシャッとつぶれ、
 その反動で大爆発を起こす現象。

ベテルギウス超新星爆発を起こすと、3~4カ月にわたって満月の100倍の
明るさで輝き続け、私たちは昼間でもそれを見ることができるそうです。

その後はだんだん暗くなっていき、4年ぐらいで肉眼では見えなくなります。

ベテルギウス超新星爆発は、いつ起こるのか分からないし、
すでに起こっている可能性もあります。

ベテルギウスと地球は640光年離れているため、ベテルギウスから出た光が
地球に届くまでには640年かかります。

つまり、超新星爆発が起こってから640年間は、私たちはその事実に
気がつかないのです。

10年前の2011年の時点では、「2012年にもベテルギウス超新星爆発
見られるかもしれない」と騒がれましたが、最新の研究によると、
「爆発は今後100万年以内」というずいぶん悠長な話に変わってきています。

ただし、宇宙は分からないことだらけなので、「やっぱり爆発した!」という
ニュースがいつ飛び込んできても不思議ではありません。

たとえば来年(2022年)、私たちがベテルギウス超新星爆発を目撃できたと
空想してみましょう。

実際の爆発は640年前の、1382年だったことになります。

日本では鎌倉時代が終わって室町時代が始まる前の、いわゆる南北朝時代
あたります。

そんな昔にベテルギウスから放出された光が640年間、ずっと宇宙を飛び続けて
地球に到達した。それまで無かったものが突然、私たちの目の前に現れた--。

これって、とてつもなく不思議なことではないでしょうか。

バカげた言い方をするなら、「超新星爆発という事実」がタイムマシンに乗って、
640年の時を超えて現代にやってきた…とか。

この話を思い浮かべるとき、私は決まって「時間とは何だろう」と考えます。

そして、何も解らないことに途方に暮れます。

 

人間がこしらえた幻想なのか?

 

2018年に刊行された『僕たちは、宇宙のことぜんぜんわからない』という
本があります(ダイヤモンド社)。

そのなかに「時間って何?」という章があるのですが、そこには
「時間は物理学的に定義することさえできない」と書いてあります。

その理由として、以下のような「時間についてのややこしさ」が説明されます。

1.時間と空間は似ているが、同じようには扱えない。
 たとえば私たちは、空間内を自由に移動したり、移動のスピードを自由に
 変えたりできるが、時間についてはそうした自由がない。

2.時間は一般には「過去→現在→未来」という一定方向(前への方向)にしか
 進まないと考えられているが、ほとんどの物理法則では、時間が前に進もうが
 後ろ(逆向き)に進もうが問題はない(法則が成り立つ)

3.かつて時間は誰にとっても共通な「ひとつのもの」と考えられていたが、
 アインシュタイン相対性理論により、人それぞれが置かれた環境によって
 時間の進み方は異なることが証明された。

そして、結局はまだ何も分からないということで話は終わります。

仕方がないので、どうせ何も解らないだろうと思いながら、
また別の本を読んでみます。

2019年に刊行された『時間は存在しない』という本(NHK出版)と、
2020年に文庫化された『すごい物理学入門』という本(河出文庫)。

両方とも、カルロ・ロヴェッリというイタリアの物理学者が書いた本の翻訳版です。

『時間は存在しない』はあまりに内容が難しく、途中でギブアップしました。

『すごい物理学入門』には、上記2.と同じようなことが書いてあります。

●熱の移動がみられない場合、または移動した熱の量が無視できるほど
  微量だった場合、物理学では未来も過去とまったく同じように振る舞うと考える。

●たとえば、太陽系の惑星運動において熱はほとんど意味をもたないので、
  惑星の運動がたとえ逆向きになったとしても、物理の法則に何ひとつ
  反することはない。


ところがです。ある現象に熱がかかわると、未来は過去と異なるものになると、
カルロ先生は言います。


●摩擦がないかぎり、振り子は永遠に揺れ続ける。揺れている振り子の映像を
  撮影して、それを逆に再生しても、動きはまったく不自然には見えない。

●そこに摩擦が生じると、摩擦によって振り子は支柱をわずかに温めるため、
  それによってエネルギーが奪われ、揺れるスピードが遅くなる。つまり、
  振り子の揺れがゆっくりになっていく「未来」と過去が区別できるようになる。

こうしたことから、未来と過去を区別する根本には、熱いものから
冷たいものへの熱伝導がかかわっているというのです。

どうやら熱のやり取りが、時間というものの正体を解き明かすための
ヒントになりそうだということまでは判明したらしいのですが、
その先の答はやっぱりカルロ先生にもまだ分からないそうです。


私が想像したのは、こんなことです。

時間について、物理学的に定義することもできず、方程式もつくれないのだとしたら、
距離や速さといった「私たちが視覚的に把握できるもの」とは、そもそも性質の
異なるものなのではないでしょうか。

まず考えられるのは、「時間=人間がこしらえた幻想」ということです。

たとえば人間以外の動物は、飛んだり跳ねたりするときに「距離」を測るし、
敵や獲物の移動を把握するにあたって「速さ」への認識もあるはずです。

でも、時間については朝・晩とか季節とか「エサの時間」とか、
周期性への認識はあっても、1日や1年という量的な認識はないでしょう。

人間が量的な時間の認識にこだわるようになったのは、生きていくうえでの
知恵ということに加えて、死や寿命に対する怖れが関係していたのかな、とも
思ったりします。

時間に対する幻想は、記憶の鮮明さとも関係があるかもしれません。

他の動物に比べて、人間はあまりに過去の記憶が鮮明に残っているため、
相対的に「現在がすべて」という感覚が薄く、あるいは現在への集中度が弱く、
だからこそ過去と現在の関連を強く意識するのではないか。

そこから「未来」という、まだ見ぬ、あるかどうかも分からない状況への
連想も湧いてくるようになったのではないか--。


記憶に関しては、星新一『午後の恐竜』という面白い作品があります。

ある日曜日の朝、男が目ざめると家の外では恐竜が闊歩し、数億年前の
シダのような巨大植物が繁茂していました。

テレビニュースでも話題になっているところをみると、それは男の幻覚ではなく、
どうやら世界中で同時に起きている現実のようです。

ただし、家の外に広がっているものには実体がなく、巨大植物を触ろうとしても、
まるで蜃気楼のように手をすり抜けてしまいます。

やがて外を歩いているのは哺乳類の先祖のような動物に変わり、
原始人が現れ、馬やツル、クマとだんだん見慣れた動物に変わっていきました。

これが実は、人間が死に直面した際に見るといわれる「過去の回想シーン」で、
ある事件によって人類が滅亡の危機にさらされていたため、全世界が集団で
地球の回想シーンを目にした、という内容です。

そこでは地球上に生命が誕生してからの歴史が、ほぼ1日に凝縮して展開されます。

私もかつて友人から、車で田んぼに突っ込んだときに、落ちていくまでの短時間で
「回想シーンをはっきり見た」という話を聞かされたことがあります。

過去の記憶をまとめて引っ張り出すのに、ほとんど時間がかからないのだとしたら、
「時間っていったい何なんだろう?」という思いは、余計に強くなります。

 

毎月分配型投信の盛衰にみる不幸

複利効果が効かなくなる


いまから4~5年ほど前まで、毎月分配型タイプの投資信託が、
日本の高齢者を中心に異常なほどの人気を誇っていました。

毎月分配型は当初、いわゆる外債投信(外国債券に投資する投資信託)が主流でした。

大ヒット商品となった『グローバル・ソブリン・オープン(通称:グロソブ)』は、
2005年から08年にかけて純資産が5兆円を超えていました。

通常、投信の純資産は1兆円を超えれば大ヒットといわれるので、
グロソブは大・大・大ヒットのレベルです。

その後、もっとリスクの高い海外の投資対象に投資してハイリターンを狙う
タイプやら、毎月ではなく隔月で分配するタイプやら、さまざまな商品が
手を替え品を替え登場し、いずれもそこそこの人気となりました。

なぜ毎月分配型投信があんなに支持されたのか、正直にいって私はいまでも
解りません。言い換えるならば、毎月分配型投信をあえて購入する価値が
どうしても見出せない
のです。

まず、分配金というかたちで投資収益(リターン)の一部をしょっちゅう
投資家に払い戻すことで、長期投資のメリットである複利効果」が十分に
効かなくなります。

これは計算すれば分かることなので、一例を示してみましょう。

たとえば、私たちが一般的な投信Aに100万円を投資して、投信Aの投資成績が
1年目にプラス12%、2年目にも同じくプラス12%だったと仮定します。

投信Aがいっさい分配金を出さない場合、各年の投資成績は以下のような
計算で表されます(税金やコストは含みません)。

●1年目/100万円×1.12=112万円(1年間の増加額は12万円)
●2年目/112万円×1.12=125万4400円(1年間の増加額は13万4400円)

投信Aに投資した人の2年間の投資収益額は25万4400円です。

1年目の増加額である12万円が、2年目のスタート時にプラスされることで
投資元本が増えるため、毎年の増加額が加速度的に増えていく。
それが、いわゆる複利効果です。

それでは、私たちが毎月分配型の投信Bに100万円を投資した場合はどうでしょうか。

投信Bの投資成績も投信Aと同じく1年目、2年目ともにプラス12%だったとします。

ただし、こちらは毎月1万円ずつ分配金を投資家に払い戻します。

投信Bの1年目の投資成績は、投信Aと同じく「100万円×1.12=112万円」ですが、
そこから「1万円×12カ月=12万円」の分配金を払い戻すため、
2年目の投資元本は1年目と同じく100万円となります。

なお、この時点で投資家には12万円が投資収益として入っています。

2年目も1年目と同じことが繰り返されるので、投資家には再び12万円が
投資収益として入り、投資元本は再び100万円に戻ります。

投信Bに投資した人の2年間の投資収益額は「12万円×2年=24万円」なので、
すでに投信Aに投資した人より少なくなっていることが分かります。

もちろん、投信Aに投資した人は、まだその投資を継続中なので、
投資収益を換金して手にしたわけではありません。

あくまでも「投資の途中経過」が25万4400円のプラスになっているだけです。

一方で投信Bに投資した人は、すでに24万円を換金した、つまりは24万円分の
投資収益を確定させたことになります。

 

高齢者ならではの心理が影響した

 

改めて考えたいのは、投資における複利効果というメリットを犠牲にしてでも、
定期的に投資収益を換金する必要が本当にあるのか、ということです。

毎月分配型投信が人気を集めた理由として、高齢者を中心に投資家が
定期的な分配金を「日々の生活費の足しになるお小遣い」のような感覚で
とらえているからだという説明をよく耳にしました。

「日々の生活費の足しになる」とはいっても、たとえば数千万円の資金で
毎月分配型投信を購入したような投資家が、生活費に困っているはずはありません。

私はむしろ、高齢者を中心とした「投資に不慣れな人たち」が、
以下のような心理から、毎月分配型投信を重宝したのではないかと考えています。

●日々の投資状況は単なる途中経過である、と割り切ることができない。

●そのため、将来的なリターンの拡大よりも、目先の小さくても安定した
  リターンや心の平穏を優先する。

こうした心理状態には、高齢者ならではの背景もありそうです。

日本人の寿命が延びて人生80年や90年が当たり前になったとはいえ、
高齢者にとってはやはり、残された時間は決して長くないというのが
本音だと思います。

せっかく投資でリターンが得られるのなら、少しずつでもいいからできるだけ
早くそれを手にして、元気なうちに自由に使える喜びを味わいたい。

そんな気持ちは分からないでもありません。

しかし、残念なことに、ある時期から毎月分配型投信は本当に
投資する価値のない代物に成り下がってしまいました。

運用会社の間で、毎月分配型投信の「分配金利回り」(※)の大きさを
競う動きが激しくなって、投資収益を分配金に回すだけではなく、
投資元本を取り崩して(削って)分配金にあてる商品が増えたのです。

※分配金利回り:過去1年間の分配金総額をその時点の基準価額で割ったもの。
 株式における配当利回りに相当します。

分配金利回り競争が激化したのは、運用会社だけのせいではありません。

その当時、毎月分配型投信の人気はすさまじく、投信業界では
「毎月分配型でないと売れない」と言われるほどでした。

販売会社である銀行や証券会社なども、毎月分配型投信を売ることに
躍起になっていたはずです。つまり、そうした販売会社からの要請で、
運用会社が「分配金利回りを高く見せる」必要性に迫られたということも、
十分に考えられるのです。

投資元本を削ると、それ以降の投資については複利効果と逆のことが起こります。

前述の投信Bでは、1年目に投資元本から10万円分を削ってさらなる分配金に
あてた場合、2年目の投資元本は90万円まで減るため、2年目の投資成績は
「90万円×1.12=100万8000円」にしかなりません。

こんなことを繰り返していたら、分配金利回りという表面的な魅力はいくら
高まっても、肝心かなめの投資部分による収益獲得力がどんどん弱まって
いってしまいます。


最終的に、毎月分配型投信は金融庁から「顧客本位ではない商品」と批判され、
異常なブームは終わりを告げることになりました。

以前からよく言われていることですが、投信業界では、売れ筋や人気の商品が
必ずしも「品質が良い商品」とは限りません。

品質が良い投信とは、一般個人が長期で資産形成をおこなうのに役立つ
投信のことです。

その意味では、ひと頃まで日本で投信を買うのは高齢者が中心だったという事実は、
投信業界にとっても投資家にとっても不幸だったのかもしれません。

どう考えても、高齢者は若者に比べて長期の資産形成に意識が向きにくいからです。

 

心をつなぐ心霊・怪奇現象

胡散臭いけど、いつも身近にあった

 

むかしから心霊現象や怪奇現象は好きな方です。

私だけでなく、私の世代の多くは好きだったように思います。

小学生時代には、つのだじろう『亡霊学級』『恐怖新聞』『うしろの百太郎』、
古賀新一エコエコアザラク』、楳図かずお漂流教室といった
心霊・怪奇コミックスが、教室で貸し借りされ、みんなで読みあさっていました。

男女10人ぐらいの同級生で「心霊研究会」をつくったこともあります。

教室や、あるときは私の家に集まって怪談話をしたり、こっくりさん
「キューピットさん」をやっていました。

家には不幸の手紙が届き、ヤマギシやら口裂け女やら、
訳の分からない化け物のウワサが絶えませんでした。

稲川淳二が注目を浴びたのは、私が高校3年のときだったと思います。

深夜ラジオの『坂崎幸之助オールナイトニッポン』にゲストで出演した
稲川淳二が、かの有名な「生き人形」の話を披露し、それを同級生のKが
カセットテープに録音して、学校に持ってきました。

「メチャメチャ怖くて、途中からは録音だけして、聴いてへんねん。
もう1回最初からみんなで聴こう」とKが言うので、私を含めた男4人で
軟式野球部の部室にこもり、一部始終を聴きました。

テレビではユリ・ゲラーや清田くん(清田益章)、矢追純一宜保愛子
新倉イワオなど、心霊・怪奇・超常現象がらみの常連さんが相次いで誕生し、
平日の昼間から心霊特集などの番組がたくさん組まれていました。

稲川淳二の「生き人形」もテレビでも何度か放送され、生放送中に怪奇現象が
次々と起きて騒ぎになったりしました。

思えば、幸せな時代だったのでしょう。

胡散臭いけど不思議な話や怖い話が、いつも身近にありました。

大学時代には先輩の「霊体験」も、数人から聞かされました。

2つの印象深い不思議な体験

 

私自身は、いわゆる霊体験はいちどもありません。

明確に不思議な体験も、わずかに2回だけです。

その2回はいずれも、たしか1987年から88年頃にかけての出来事だったような
気がします。正確な年は覚えていません。

1回は、大学のサークルで恒例の夏合宿に行ったときのこと。

ある旅館の別館を借り切って、3泊4日の間に延べ40人ぐらいの現役学生と
OBが出入りする、にぎやかな合宿でした。

畳の部屋を囲むように「コの字形」に細い廊下があり、
そこはカーペット敷きになっていました。

「コの字」の開いたところには、洗面所とトイレが並んでいます。

ある朝、8時か9時頃に目が覚めると、大騒ぎになっていました。

カーペット敷きの廊下だけが、隅から隅までぐっしょりと水で濡れているのです。

「コの字」の中には6畳の部屋が3つぐらいあったので、廊下の一辺は
けっこう長かったはずです。とにかく半端な濡れ方ではありません。
しかも、畳の部分はまったく濡れていないのです。

そこは軽井沢のはずれに位置していて、9月半ばのことだったので、
朝はけっこう冷え込みます。

たとえば洗面所の水道が凍結していて、酔っぱらった誰かが蛇口をひねったけれど
水が出ず、そのまま閉め忘れて、夜が明けてから凍結が解けて水が出っぱなしに
なったのかな、とも思いました。

でも、私たちの多くは明け方の5時ぐらいまで飲みながら騒いでいたので、
それからほんの3~4時間でそんな事態になることは考えづらいし、
だいいち水がジャージャー出ていたら、さすがに誰かは音に気づくはずです。

いまだに原因は分からず、その別館は数年後に取り壊しとなってしまいました。

 

もう1回は、私が東京のアパートから大阪の実家に帰省していたときのこと。

当時6歳か7歳だった飼い猫は、家に来たばかりの0歳時に2~3回だけ
私と一緒に寝てくれただけで、以来、いちども一緒に寝ようとはしませんでした。

その帰省時、私は大学を3年でやめて、次の年に入った専門学校も半年でやめて、
今後の身の振り方についてけっこう悩んでいました。

あてもなく比叡山に登ってみたり、心はフラフラ揺れていたのだと思います。

ある晩、何の前触れもなく猫が近づいてきたかと思うと、ごくごく自然に
私の布団にもぐり込むではありませんか。

どれぐらいの時間、一緒にいてくれたのかは覚えていませんが、
布団のなか、私の腕枕でしばらく静かに寝たふりをしているように見えました。

動物が人間の「心を読む」とは、こういうことなのか、と思いました。

恐らく何かを察して、何かを伝えにきたのでしょう。

2回の不思議な体験は、私にとってどちらも「よく解らない体験」です。

ひとつは現象が起きた原因が解らず、ひとつは猫の伝えたかったことが解りません。

それでも私の心には、若き日の懐かしい思い出として強く印象に残っています。

心霊現象や怪奇現象も含めて、不思議な体験というのは結局のところ、
体験した人の「心の問題」なのではないでしょうか。

本当に起こったのか。原因は何だったのか。誰が何を伝えようとしているのか。
これらは体験した本人が考えて結論を出せば、それでいいような気がします。

一方で子どもの頃、身のまわりに氾濫していた不思議な話や怖い話は、
その多くが「他人の体験談」であり、「他人のつくり話」です。

いま振り返ると、それらは私たちにとって、コミュニケーション・ツールの
ひとつだったように思います。

私たちそれぞれの心を豊かにしてくれた、とまでは言いませんが、
少なくとも友人たちと時間を共有する際の、心と心をつなぐ、
手っ取り早くて意外と重要なテーマだったような気がするのです。