解✦談

解りやすく、解きほぐします。

殺人事件が起きないミステリー

天の配剤にみる人間への深い信頼

 

「殺人事件が起きないミステリー小説」の面白さを、北村薫によって知りました。

北村薫の小説にはシリーズものの短編集がいくつかあり、
そのうち「円紫さんと私シリーズ」の初期に属するのが、
『空飛ぶ馬』と『夜の蝉』(いずれも創元推理文庫)の2冊です。

主人公である女子大生の「私」が、身の回りで起こった不思議な出来事を、
知り合いの落語家・円紫さんに謎解きしてもらう内容になっていて、
不思議な出来事は、たとえば以下のようなかたちで提出されます。

赤頭巾(『空飛ぶ馬』に収録)

歯医者の待合室で、「私」は隣に座った中年の女性から突然、奇妙な話を
聞かされる。その女性がある日曜日に幼馴染みの友人宅へ行ったときのこと。
友人が「最近、日曜日の夜9時になると、家の前の公園に赤頭巾が出る」と言うので、
夜9時に2階の部屋から公園をのぞかせてもらったら、実際に赤いレインコートを
着た女の子が立っていた。

空飛ぶ馬(『空飛ぶ馬』に収録)

「私」の隣家の奥さんが、ある晩に幼稚園の前を車で通ったら、つい先日、
園の庭にコンクリートで固めて設置されたばかりの「木馬のおもちゃ」が
消えてなくなっていた。ところが次の日の朝、子どもを幼稚園まで送っていくと、
そこには元の場所にきちんと木馬が置いてあった。

《赤頭巾》では「不倫と侮蔑、嫌悪」が、《空飛ぶ馬》では
「結婚と愛情、いたわり」が、それぞれの謎を解くカギになっています。

円紫さんの見事な謎解きを聞きながら、「私」は人間のさまざまな心のあり様や、
人間関係の尊さ、恐ろしさに気づいていきます。

いわば「私」の成長物語にもなっているわけですが、このシリーズの素晴らしさは、
話が展開される順番にもあると私は思います。

円紫さんと私シリーズの第1作である『空飛ぶ馬』には5つの短編が収録されていて、
《赤頭巾》は4つ目、《空飛ぶ馬》は5つ目の話にあたります。

「私」が20歳の誕生日を迎えた12月25日に、渋谷の喫茶店《空飛ぶ馬》
謎解きをしながら、円紫さんは「私」にこんなことを言います。

「天の配剤ということをあなたは信じますか」

「僕はそういう運命の好意を信じたいですね。この間の《赤頭巾》に続いて、
 同じくあなたの町が舞台です。人が生き、人と触れ合ううえでの2つの出来事が、
 そこに順序よく示されているような気がします」

「どうです、人間というのも捨てたものじゃないでしょう」

ここに出てくる「天の配剤」とは、「神様は物事をほどよく組み合わせて、
私たちの前に提出してくれる」というような意味でしょう。

人間のもつ「毒」や「悪」の部分にも目を向けながら、ひとつの短編小説集を
このように前向きな言葉と印象で締めくくる--。

そこには北村薫の、人間に対する深い信頼が感じられて、清々しい読後感が残ります。

まったくの蛇足ですが、《空飛ぶ馬》にはこんな一節も出てきます。

大学の男の子のなかには、中日ドラゴンズを後楽園、神宮、横浜と追いかけ、
名古屋にも足を運んだという人がいる…。

私はまさに大学時代、これと同じことをしていました。

何しろ、サークルが「CDFC(中日ドラゴンズ・ファンクラブ)」だったもので。

『空飛ぶ馬』の単行本が出たのが1989年、私が大学に在籍していたのが
1984年4月~87年3月、そして北村薫と私は大学が同じです。

CDFCは私が知るかぎり、88年までは学内で活発に活動していたはずなので、
もしかしたら、私より16歳年上の北村薫はどこかでCDFCのうわさを聞きつけて、
書いてくれたのかもしれません。

 

いつも寄り添っていてくれた姉の心

 

同じく円紫さんと私シリーズの第2作である『夜の蝉』には、3つの短編が
収録されていて、その2つ目が《六月の花嫁》、3つ目が《夜の蝉》です。

この順番も見事というほかありません。

例によってそれぞれ円紫さんの謎解きがあるのですが、この2つの話ではむしろ、
謎解き以外の「人間もよう」、あるいは人間の心への気づきが読みどころに
なっていると思います。

《六月の花嫁》では、「私」の仲の良い友人である江美ちゃんが、ある秘密を
守るために結果として「私」を利用するようなかたちになってしまったこと、
そして、そのことを心の中で一生懸命、「私」に詫びていたことが描かれます。

《夜の蝉》では、「私」の実の姉が、あるときから「私」をいじめるのをやめて、
逆に何かと面倒をみるようになった理由が、姉本人の口から明かされます。

「あんたがわたしに飛びついてきたんだよ」と姉から言われて、しばらく
何のことか分からなかった「私」は、やがてその瞬間を思い出します。

小学校に上がる前の、ある夏の夜に、大きなアブラゼミが部屋に侵入してきた
ときのことでした。

そこで展開される姉妹の会話が、しみじみします。

「--あの時にね、あんたは何度も同じ叫び声を上げた」
「どんな?」
「あんた、わたしを呼ぶ時に何ていう?」
私はその言葉を口にした。
「それだよ。それを何度も繰り返したの。…あんたは二十になった。
 だけど、今でもそういうふうに私のことを呼ぶだろう。…」

そして、姉は最後にこう言ったのです。

「--結局はそういうことだよ。あんたはわたしをそう呼び、私はそう呼ばれる。
 あの時に気がついたのはそれなんだよ。それから、わたしは変わった。…
 人間が生きて行くってことは、いろんな立場を生きて行くっていうことだろう。
 かかわりとか役割とか、そういったことを理屈でなく感じる瞬間て必ず
 来るものだと思うよ」


《六月の花嫁》では、友人がひと足早く結婚して、ある意味で「私」から
遠いところへと旅立ってしまった。

しかし《夜の蝉》では、いままでずっと遠い存在だと思ってきた姉の心が、
実はいつも近くに寄り添っていてくれたことを、「私」は気づかされます。

こういう締めくくり方をしてくれて「ありがとう」と、私は北村薫
言いたくなります。