殺人事件が起きないミステリー
天の配剤にみる人間への深い信頼
「殺人事件が起きないミステリー小説」の面白さを、北村薫によって知りました。
北村薫の小説にはシリーズものの短編集がいくつかあり、
そのうち「円紫さんと私シリーズ」の初期に属するのが、
『空飛ぶ馬』と『夜の蝉』(いずれも創元推理文庫)の2冊です。
主人公である女子大生の「私」が、身の回りで起こった不思議な出来事を、
知り合いの落語家・円紫さんに謎解きしてもらう内容になっていて、
不思議な出来事は、たとえば以下のようなかたちで提出されます。
●赤頭巾(『空飛ぶ馬』に収録)
歯医者の待合室で、「私」は隣に座った中年の女性から突然、奇妙な話を
聞かされる。その女性がある日曜日に幼馴染みの友人宅へ行ったときのこと。
友人が「最近、日曜日の夜9時になると、家の前の公園に赤頭巾が出る」と言うので、
夜9時に2階の部屋から公園をのぞかせてもらったら、実際に赤いレインコートを
着た女の子が立っていた。
●空飛ぶ馬(『空飛ぶ馬』に収録)
「私」の隣家の奥さんが、ある晩に幼稚園の前を車で通ったら、つい先日、
園の庭にコンクリートで固めて設置されたばかりの「木馬のおもちゃ」が
消えてなくなっていた。ところが次の日の朝、子どもを幼稚園まで送っていくと、
そこには元の場所にきちんと木馬が置いてあった。
《赤頭巾》では「不倫と侮蔑、嫌悪」が、《空飛ぶ馬》では
「結婚と愛情、いたわり」が、それぞれの謎を解くカギになっています。
円紫さんの見事な謎解きを聞きながら、「私」は人間のさまざまな心のあり様や、
人間関係の尊さ、恐ろしさに気づいていきます。
いわば「私」の成長物語にもなっているわけですが、このシリーズの素晴らしさは、
話が展開される順番にもあると私は思います。
円紫さんと私シリーズの第1作である『空飛ぶ馬』には5つの短編が収録されていて、
《赤頭巾》は4つ目、《空飛ぶ馬》は5つ目の話にあたります。
「私」が20歳の誕生日を迎えた12月25日に、渋谷の喫茶店で《空飛ぶ馬》の
謎解きをしながら、円紫さんは「私」にこんなことを言います。
「天の配剤ということをあなたは信じますか」
「僕はそういう運命の好意を信じたいですね。この間の《赤頭巾》に続いて、
同じくあなたの町が舞台です。人が生き、人と触れ合ううえでの2つの出来事が、
そこに順序よく示されているような気がします」
「どうです、人間というのも捨てたものじゃないでしょう」
ここに出てくる「天の配剤」とは、「神様は物事をほどよく組み合わせて、
私たちの前に提出してくれる」というような意味でしょう。
人間のもつ「毒」や「悪」の部分にも目を向けながら、ひとつの短編小説集を
このように前向きな言葉と印象で締めくくる--。
そこには北村薫の、人間に対する深い信頼が感じられて、清々しい読後感が残ります。
まったくの蛇足ですが、《空飛ぶ馬》にはこんな一節も出てきます。
大学の男の子のなかには、中日ドラゴンズを後楽園、神宮、横浜と追いかけ、
名古屋にも足を運んだという人がいる…。
私はまさに大学時代、これと同じことをしていました。
何しろ、サークルが「CDFC(中日ドラゴンズ・ファンクラブ)」だったもので。
『空飛ぶ馬』の単行本が出たのが1989年、私が大学に在籍していたのが
1984年4月~87年3月、そして北村薫と私は大学が同じです。
CDFCは私が知るかぎり、88年までは学内で活発に活動していたはずなので、
もしかしたら、私より16歳年上の北村薫はどこかでCDFCのうわさを聞きつけて、
書いてくれたのかもしれません。
いつも寄り添っていてくれた姉の心
同じく円紫さんと私シリーズの第2作である『夜の蝉』には、3つの短編が
収録されていて、その2つ目が《六月の花嫁》、3つ目が《夜の蝉》です。
この順番も見事というほかありません。
例によってそれぞれ円紫さんの謎解きがあるのですが、この2つの話ではむしろ、
謎解き以外の「人間もよう」、あるいは人間の心への気づきが読みどころに
なっていると思います。
《六月の花嫁》では、「私」の仲の良い友人である江美ちゃんが、ある秘密を
守るために結果として「私」を利用するようなかたちになってしまったこと、
そして、そのことを心の中で一生懸命、「私」に詫びていたことが描かれます。
《夜の蝉》では、「私」の実の姉が、あるときから「私」をいじめるのをやめて、
逆に何かと面倒をみるようになった理由が、姉本人の口から明かされます。
「あんたがわたしに飛びついてきたんだよ」と姉から言われて、しばらく
何のことか分からなかった「私」は、やがてその瞬間を思い出します。
小学校に上がる前の、ある夏の夜に、大きなアブラゼミが部屋に侵入してきた
ときのことでした。
そこで展開される姉妹の会話が、しみじみします。
「--あの時にね、あんたは何度も同じ叫び声を上げた」
「どんな?」
「あんた、わたしを呼ぶ時に何ていう?」
私はその言葉を口にした。
「それだよ。それを何度も繰り返したの。…あんたは二十になった。
だけど、今でもそういうふうに私のことを呼ぶだろう。…」
そして、姉は最後にこう言ったのです。
「--結局はそういうことだよ。あんたはわたしをそう呼び、私はそう呼ばれる。
あの時に気がついたのはそれなんだよ。それから、わたしは変わった。…
人間が生きて行くってことは、いろんな立場を生きて行くっていうことだろう。
かかわりとか役割とか、そういったことを理屈でなく感じる瞬間て必ず
来るものだと思うよ」
《六月の花嫁》では、友人がひと足早く結婚して、ある意味で「私」から
遠いところへと旅立ってしまった。
しかし《夜の蝉》では、いままでずっと遠い存在だと思ってきた姉の心が、
実はいつも近くに寄り添っていてくれたことを、「私」は気づかされます。
こういう締めくくり方をしてくれて「ありがとう」と、私は北村薫に
言いたくなります。