解✦談

解りやすく、解きほぐします。

中日ドラゴンズ--弱さの研究①

現在の中日は歴史上、最弱である

 

中日ドラゴンズはなぜ、あきれるほどに弱いのか?

この非常につらい問題を考えるために、まず現在の中日がどれほど弱いのかを
確認しておきましょう。

中日は2002年~12年に、11年連続でセリーグAクラスに入りました。

その後、13年~19年に7年連続でBクラスとなります。

過去の年度別成績を振り返ると、プロ野球セリーグパリーグに分裂した
1950年以降で、中日がセリーグのAクラスに入れなかった過去の最長記録は、
68年~70年の3年間でした。

2020年にようやく8年ぶりのAクラス(3位)となり、そのことで与田監督の
手腕を評価する声もあるようですが、もちろん私はまったく満足していないし、
評価もしていません。

12年を最後に、中日は過去8年間、2位になれていません。
今年(21年)も99%無理なので、9年連続で2位になれないわけです。

2位といっても、12年のように首位から10ゲーム以上も離されることが結構あるので、
それほど意味はないのかもしれませんが、私はあえて2位にこだわります。

中日がセリーグの2位になれなかった過去の最長記録は、76年~81年の6年間です。

現在はその最長記録を更新中なのです。

以上のことから、現在の中日は歴史上、最弱であると言い切れます。

 

なぜ弱いのかという理由については、いろいろな意見があることでしょう。

私も言いたいことはたくさんありますが、ここでは冷静に、大人の対応を
取りたいと思います。

なぜ弱いのかを知るために、過去にはなぜ強かったのかを知るという、
逆の視点を持ち込みます。


先に結論めいたことを言ってしまいます。

中日が過去に優勝した年を振り返ると、その年に、あるいは数年前から、
ほぼ決まって「新しい血の導入」が行われていました。

新しい血とは、ひとつには選手であり、ひとつには監督の戦術です。

 

新戦力が早めに結果を出している

 

まず、私が長い中日ファン人生のなかで、いちばん燃えた年である
1982年を振り返ります。

選手で注目したいのは、80年に牛島が、81年に郭源治と中尾が加入していること。
同81年には、平野が投手から野手に転向しています。

82年には新外国人のモッカが加入し、鈴木孝が本格的に先発へ転向しました。

82年はここに挙げた選手たちが大活躍したわけですが、新しく加入したり、
転向した選手たちが、すぐに結果を出していることが分かります。

監督は前年の81年から近藤貞雄
投手コーチが権藤で、打撃コーチが黒江という、名コーチぞろいです。

近藤監督の選手起用には驚かされました。試合の終盤で中日がリードしていると、
内外野の守備固めとして選手をごそっと入れ替えるのです。

これは当時、「アメフト方式」などと呼ばれましたが、その新戦術のおかげで
81年から平野の出場機会が増え、82年にはレギュラーに定着しました。


次に、1988年の優勝時です。

前年の87年に、世紀の大トレードで落合が加入。
88年には立浪が加入して、新人王を獲得しました。

投手では87年から郭源治がストッパーに転向して大活躍を続け、
88年にトレードで獲得した小野は、いきなり18勝で最多勝に輝きます。

2年目の近藤が8勝、4年目の米村が7勝、5年目の山本昌が5勝など、
フレッシュな左腕の相次ぐ活躍も目立ちました。
高卒ルーキー上原の、地を這うような剛速球も記憶に残っています。

監督は87年から星野仙一

就任から2年間で牛島、大島、平野という、82年優勝時の主要メンバーを放出。
さらには宇野をセカンドへ、中尾を外野へコンバートし、若手や新戦力を躊躇なく
使ったことから分かるように、星野監督の戦術は「徹底した刺激策」ということに
尽きると思います。

そして、このときもやはり、その刺激策に応えて、新加入や若手の選手たちが
早めに結果を残しているのが印象的です。


それから、1999年の優勝時。

加入3年目のゴメスと、移籍2年目の関川が大活躍。
新人の福留も2割8分、16本塁打なら十分に合格点でしょう。

投手では何といっても、この年に岩瀬が加入したことが大きいです。
まだセットアッパーの扱いでしたが、いきなり10勝をあげています。
FAで獲得した武田も9勝したので、まあ及第点。

この年は19勝の野口をはじめ、投手陣が引っ張っての優勝という感が強いですが、
なかでも印象に残っているのは、首脳陣の投手起用の斬新さです。

監督は96年から2度目の就任となる星野仙一
99年には投手コーチとして山田久志を迎えています。

先発投手が5回を投げて、勝利投手の権利を得てリードしていたとします。

そんなとき、たとえば6回はサムソン・リー、7回は落合、8回は岩瀬、
9回は宣銅烈という具合に、投手ひとりに1回を任せる起用戦術が、
シーズンの後半から目立つようになりました。

当時は「ずいぶん贅沢な投手起用をするな」と思ったものですが、
いま考えれば、あれは今日でいうところの「勝利の方程式」
走りだったのですね。

※私が中日ファンになったのは1973年なので、74年の優勝もいちおう
 経験はしていますが、当時は小学4年生だったため、記憶にいまいち
 自信がないことから、74年についての考察は省略します。