解✦談

解りやすく、解きほぐします。

『なごり雪』の謎②

社会性や現実性の有無

 

文芸評論家の加藤典洋が、1996年に『村上春樹イエローページ』という
単行本を出版しました。いわゆる村上春樹の著作の解説本です。

同書の『ノルウェイの森』を解説した箇所には、以下のようなことが
書かれています。

●自殺した直子は、「僕」にとっての内閉世界を象徴するものである。
●「僕」の直子に対する愛情は、内閉への連帯の気持ちを意味する。

●直子の死後に「僕」が付き合うことになる緑は、「僕」を内閉世界から
  外に連れ出し、現実の世界と向き合って生きるように導く存在である。
●「僕」の緑に対する愛情は、内閉から脱して外部の世界に接することへの
 “あこがれ”の気持ちを意味する。

内閉世界という言葉の意味が難しいのですが、たとえば

「自分の感性や自分で決めたルールを重視して、一般世間の常識や慣習などからは
 距離を置き、なかば精神的にも物理的にも殻にこもって生きる状態」

といったところでしょうか。

もっと大きな意味では、『ノルウェイの森』の舞台となった1960年代後半という
時代を意識してみてもいいかもしれません。

当時、大学生を中心に、学生運動全共闘運動)という大ムーブメントが
起こりました。学生運動については、さまざまな解釈が可能ですが、
少なくともこの運動にどっぷり浸かっている間は、就職活動をはじめとする
「社会に組み込まれていく自分」のことを考えなくて済んだはずです。

学生運動という「閉じた場所」で、同じ目標をもった同志たちと連帯しながら、
一時的に現世を忘れて充実した時間を過ごすことができた、と言うことも
できるでしょう。


村上春樹イエローページ』を読んでから、『なごり雪』の歌詞にも
ノルウェイの森』と同じ意味合いが込められているのではないかと、
私は思うようになりました。

●「冬=ふざけすぎた季節」は、かつて《僕》と《君》が連帯感をもって
  共有していた内閉世界(内なる世界)を指している。
●そこから《君》だけが「春=外部の世界」へ一歩を踏み出すこととなり、
  それが2人の別れにつながった。
●《僕》はいまだに「冬」にとどまっている。

「冬」と「春」を隔てるのは社会性や現実性の有無である、と言えるのかも
しれません。つまり、「冬」にとどまっている間は幼稚で半人前であり、
「春」に踏み出すことによって一人前の大人になるのだと。

ただ、私自身は「冬」にとどまるのがダメなことで、「春」に踏み出すのが
良いこととは、どうしても思えないのです。

これらは良い悪いとは関係なく、時の流れによって自然に決まっていく
種類のものではないでしょうか。

私にはかつて、15年半にわたって付き合った女性がいました。

最初の3年ほどは、私の仕事も定まらず、経済的にもまったく不安定で、
彼女にお金を借りながら生活するような有様でした。社会的にみれば、
本当に情けない状況でした。

でも、いま振り返ると、その情けない期間こそが、15年半のなかで私と彼女が
最も純粋にハダカで向き合うことのできた、貴重な時間だったような気がします。

その後、私は正社員となり、経済的にも余裕ができて、自分の社会的な
立ち位置を得たような気分に浸っていました。

しかし、それとともに、かつて彼女と共有した内閉世界の、半人前だけれど
純粋だった、あの心持ちは消えていったのだと思います。

 

無駄な抵抗のように降る雪

 

なごり雪』の歌詞をこうした視点で眺めると、
なごり雪も降るときを知り】というフレーズも理解しやすくなります。

私は長らく、このフレーズの主語が何なのか悩みました。

《僕》が、いまこそ「なごり雪も降る(べき)とき」だと知った(感じた)のか?
それともこれは擬人法で、なごり雪が自ら「いまが降る(べき)ときだ」と
知って(悟って)、実際に降り始めたのか?


手元の辞書には「名残(なごり)の雪」について、こう書いてあります。

①春が来ても消えないで残っている雪。
②春になってから降る雪。

なごり雪』の意味は、【季節はずれの雪が降ってる】という歌詞からみて、
②の方だと考えられます。

もう春なのに、あたかも冬を名残り惜しむかのように降る雪。
どれだけ名残り惜しくても冬はもう終わり、春になることが確定している。
つまり、無駄な抵抗のように降る雪。


これを《僕》の気持ちに置き換えて考えると、こんな風になります。

●まだ内閉世界にとどまっている《僕》が、ひと足さきにそこを去っていく
《君》に対して名残り惜しさと、ちょっとした抵抗感を感じている。

●まるで、ある時代に喜怒哀楽を共有した大切な“同志”を失うことが、
  悔しくて仕方がないというように。

単純にそうした印象を喚起させる言葉として、なごり雪も降るときを知り】という
フレーズは使われたのであり、主語はどうでもよかったのではないか、というのが
現在の私の解釈です。


ちなみに、【君が去ったホームに残り】【落ちては溶ける雪を見ていた】という
歌詞も同じ文脈で理解できます。

●《君》が去ったホームは「冬」の比喩であり、そこに《僕》は残っている。
●「落ちては溶ける雪」とは、いくら名残り惜しさや抵抗感を抱いても、
 かつて《僕》と「冬」を共有した《君》は、もう戻ってはこないことを
 意味する。

 

正ヤンの心情が反映されていた? 

 

ここからは、後付けというか、こじつけのような話です。

かぐや姫版の『なごり雪』が収録されたアルバム『三階建ての詩』では、
南こうせつの提案により、メンバーの伊勢正三山田パンダも数曲ずつ、
作詞・作曲を担当することとなりました。このアルバム発表から約1年後の
75年4月に、かぐや姫は人気絶頂のなかで解散します。

こうした経緯を振り返ると、『なごり雪』がつくられた段階ではまだ解散の
話は具体化していなかったとしても、それまでリーダーである南こうせつ
牽引力に頼っていたグループが、3人それぞれの個性を打ち出す方針に
変わりつつあったことは確かです。もしかすると、メンバーの間で解散への
意識が多少は芽生え始めていたかもしれません。

正ヤンが南こうせつの高校の後輩であり、南こうせつに誘われて
グループに参加したことを考えると、正ヤンにとってかぐや姫
「安住の場所=内閉世界」だったような気がします。世間のことなど
意識しなくても、いちばん年下の自分が自由奔放に振る舞うことを
許されている場所、という意味での内閉世界です。

そこからメンバーがいわば独立していくような機運が生じていたのが、
ちょうど『なごり雪』がつくられたタイミングだったわけです。

歌詞に込められた名残り惜しさや抵抗感とは、かぐや姫というグループが
やがて消えゆくことに対するものであり、冬にとどまる《僕》とは、
グループを離れることに不安を抱く正ヤンの心情が反映されたものだった、
というのは深読みが過ぎるでしょうか。

解散から3年後の78年に、グループは再結成し、『かぐや姫・今日』という
アルバムを1枚だけ発表しました。そこには正ヤン作詞・作曲の
『きらいなはずだった冬に』という曲が収録されています。

歌詞は再会、つまりは再結成を喜ぶ内容なのですが、このタイトルには、
かつて自分が離れることに不安を感じ、結局は解散によって決別することとなった
「冬=かぐや姫」への、複雑な懐かしさが込められているようにも思います。