解✦談

解りやすく、解きほぐします。

ヒトは退化に向かっているのか

人びとの幼稚化、怠慢化、興味の均質化

 

晦日から元日にかけて、養老孟司の新刊『ヒトの壁』(新潮新書)を読みました。

養老先生ご本人が数年前、どこかで書いていたように、著作がだんだんと人生の
まとめに近づいているようですが、その舌鋒は相変わらず鋭く、思わずページの
端に何カ所も折り目を付けてしまいます。

たとえば、こんな具合(各章より抜粋、以下同様)。

今は人間関係ばかり。相手の顔色をうかがい過ぎていないか。
たかがヒトの分際で調和をはかろうとしすぎていないか。

子どもたちの理想の職業がユーチューバーだというのは、
対人偏向を示していないか。なにか他人が気に入るものを
提供しようとする、対人の最たるものであろう。

人が人のことにだけ集中する。
これはほとんど社会の自家中毒というべきではないか。

ニーズ偏向は子どもに限った話ではないでしょう。

ビジネスの世界など、ある時点からほとんどニーズ先行になり果てた感があります。

どうしてなのか。お金ボケか、平和ボケか。

いずれにしても日本では80年代のバブルとその崩壊を経て、人びとの
幼稚化と怠慢化、さらには興味の均質化が進んだと私は思っています。

それが消費にも、商品やサービスの提供にも、さらには社会全体の空気にも
影響を及ぼしていると。

自分自身のことを含めて、常に戒めが必要です。

…コンピュータが作る世界は理屈の世界である。
理屈が通るように創られた世界だ、と言ってもいい。

…「ああすれば、こうなる。こうすれば、ああなる」。

現実の世界で、その理屈が昔から得意とするのは、経済と軍事である。
「富国強兵」が明治の標語だったのは、おそらく偶然ではない。

経済も軍事も「ああすれば、こうなる」、すなわち「予測と統御」が
中心だからである。

「ビジネスモデル」なんていうものも、恐らく同じ理屈の世界の標語でしょう。

ビジネスモデルが優れていれば、成功するに決まっている。だから、そこに
お金をつぎ込む価値がある--。

いつから人びとは、そんな未来予測ができる全能の神になったんでしょうか。

一方で、老後の生活も「予測と統御」によって管理できるという思い込みが、
逆に人びとの不安を煽る結果になったようにも思えます。

若い頃からコツコツと倹約や投資に励んでおかないと、将来たいへんなことになる…。

実際には、自分の寿命についてさえ、何も分からないはずなのに。

特定の目的に限定して意味あるいは機能を定める。
こうした思考は一世を風靡した、と言ってもいいであろう。

…私は軽度の肺気腫で糖尿病だけれども、病院に行かないから健康である。
病院に足を踏み入れなければ、そこで「意味がある」存在にはならないのだ。

しかし病院の検査基準値で私の健康度を測るなら、私は立派な病人であり、
医療の必要がある。

このような言説に対しては、頑固で自分勝手という感想をもつ人が現代では
多いと思います。

私も10年ほど健康診断を受けていないのですが、職場などでその話をすると、
たいてい「こいつアホか」といった顔をされます。

養老先生は最終的に心筋梗塞で入院することになったため、それをもって
「結局は病院のお世話になっているじゃないか」と毒づく人もいるでしょうが、
問題は病院の世話になるか、ならないかではありません。

本来は自然治癒力によって症状が治ったり、病気を抱えながらでも病院に行かず、
なんとか生きることができるのに、何でもかんでも病院の基準に合わせようとする
人がやたらと多いことが問題だと思うのです。

 

個体としての無秩序状態に陥った

 

病気だけではないですよね。

業界基準、欧米基準、世間の常識、現代の常識、科学的エビデンス

多様性の時代とかいいながら、誰かが勝手に決めた意味や機能に自分を合わせたがる
人が多いのは、いったいどうしてなのか。

その答らしきものが、『ヒトの壁』には書かれています。

…現代の社会状況ではいったん医師の手にかかったら、医療制度に完全に
巻き込まれる…。

自分がいわば野良猫から家猫に変化させられることになる。

そうなると甘いものがどうとか、タバコはやめろとか、日常食べるものから
嗜好品まで、…小さな行動にも点数が付く。

委細構わず好きにすればいいかというと、周囲が医療制度というシステムに
すでに巻き込まれているから、あれこれ言われてしまう。

要するに、さまざまなシステムがあまりに大きくなりすぎて、人びとがそこから
逃れにくくなっていることが現代社会の特徴だということでしょう。

前述した幼稚化や怠慢化、興味の均質化にも、システムという存在が大きく
影響しているはずです。

『ヒトの壁』の最初の方には、こんなことも書かれています。
「どこかに秩序が生まれれば、無秩序がそれだけ増える…」

システムとは、いわば秩序の典型です。

予測と統御が好きな現代人は、やはり心のどこかでシステムに安住すること、
つまりはシステムに縛られることを求めているのでしょう。

そして、以下のように無秩序な状態に陥ります。

さまざまな報道を見て感じるのは、この社会はほとんど反応だけしている、
ということである。

刺激に反応するのは生物のもっとも原始的な行動である。

毎回反応だけで済ませているから、簡単な、ある程度でも済むはずの解決もない。

システムによって社会的、集団的な秩序を手に入れる替わりに、個々人が自分の
頭で考え、判断し、話し合い、物事や出来事に対処することができなくなった、
つまりは個体としての無秩序状態に陥った--ということでしょうか。

その先には、こんな恐ろしいリスクも待ち受けています。

AIを使って予測した結果はこうなります。そう言われれば、
そうなるようにするしかない。

気の利いた人ほどそうするであろう。だからその方向に世間は動く。

それは二十世紀前半の日本社会がズルズルと戦争に向かって
動き出したことと軌を一にする。

AIというのは人びとの怠慢化の象徴だと、私は理解しています。

怠慢なのだから、一部の仕事がAIに奪われるのは当然です。

これはどうみても人類の「退化」だと思うのですが、科学信仰や
デジタル信仰の強い現代人にとっては、やはり進化に見えるのでしょう。

過去の著作と同様に『ヒトの壁』も、現代人に対する危惧や警鐘が
満載の1冊ですが、最後の章において、養老先生はようやく優しい
老人としての顔をのぞかせます。

それは愛猫「まる」の死が、もたらしたものでしょう。

犬や猫は、日本でおよそ二千万匹が飼われているとも聞く。

猫なんて、役に立つわけではなくて、迷惑をかけるだけの存在のはずだ。
でも、多くの人がそんな迷惑をかけるだけの存在を必要としているとも言える。
…うちのまるときたら動かないし、ネズミを捕れるはずもない。
でも、だからこそ、あれでも生きているよ、いいんだよねと思える。

生前は、よく寝ていた縁側をふっと見るとやっぱりそこで寝ているもんだから、
それでこちらの気が安まった。今はそれがないので、いるつもりになるしかない。

いなくなっても、距離感や関係性は変わらない。
今も、いつもの縁側の窓辺にまるがいそうな気がする。
頭をたたいて「ばか」と言えるのはまるだけだった。
それがもう口癖だったので、もし再会できたとしたら
「ばか」と言ってやろうと思う。


これを読んで、私は涙がこぼれそうになりました。

養老先生だけでなく、犬や猫を飼っている多くの人は、心の中にこういう
可愛い部分を持ち続けているはずです。

そんな動物(=自然)への純粋な気持ちがある限り、人びとがひたすら退化して
バカになっていくなんてことはないのだと、信じてもいいような気もします。