解✦談

解りやすく、解きほぐします。

アナログゲームの想い出

強すぎて疎まれた紙相撲力士

 

先日、某新聞の特集記事で知ったのですが、最近はボードゲーム
流行っているそうです。国内だけで年間約1000点の作品が発売され、
イベントやフリーマーケットも人気だとか。

新聞記事によると、11月下旬に東京ビッグサイトで開かれた
アナログゲームの祭典「ゲームマーケット2021秋」には、
約1万8000人が詰めかけました。

会場内の出展ブースでは500種類ほどの新作ゲームが販売され、
その多くは個人やサークルによる手作りの作品でした。

また、東京の上野には「コロコロ堂」というボードゲームカフェがあり、
700種類以上のゲームで遊べるとのこと。

コロナ禍の影響で他人との接触が減った反動という意味合いも
大きいのかもしれませんが、アナログ好きの私としては、
ボードゲームが再び日の目を見ることを嬉しく感じます。

思えばその昔、ボードゲームを含むアナログのゲームを、いったい何種類
やったことでしょうか。

思いつくままに挙げてみると、「魚雷戦ゲーム」「レーダー作戦ゲーム」
「レーダーサーチ」「手探りゲーム」「人生ゲーム」「ゴルフゲーム」
「野球盤」「サッカーゲーム」「バックギャモン」「ダイヤモンド」
「ルーレット」「オセロゲーム」などは、自分で持っていた記憶があります。

これらは小学生時代に、親や祖父母にねだって買ってもらったはずなので、
昔の家庭ではアナログゲーム代が馬鹿にならなかった感じですね。

「モノポリ」「ペトロポリス」「億万長者ゲーム」「ポンジャンなども、
友人の家で何度もやりました。他にも名前が思い出せず、ネットで調べても
見当たらないゲームがいくつもあります。

トランプや花札でも日常的に遊んでいましたし、麻雀も私が小学4年の頃から
家族でやっていました。

中学生になってからは、友人に頼まれて「トントン紙相撲」という
切り抜き型の本(誠文堂新光社)を買い、自分の力士をつくって
紙相撲大会に参加しました。

私を含めて4人が集まったのですが、ひとり当たり5人の力士をつくると、
大相撲と同じ15日間の取り組みが成立します。

私はこの遊びに乗り気ではなく、頼まれてしぶしぶ参加したのですが、
私がつくった「金星(きんせい)」という力士が、たまたまバランスが
良かったのか、とてつもなく強く、2大会連続で優勝しました。

すると、残りの3人から疎まれて、何だかよく分からない「寸法の規制」などが
できてしまい、私は仕方なく金星の身体にハサミを入れて寸法を変えました。

案の定というか予定どおりというか、それで金星は弱くなったのですが、
私がつくった「地獄氷(じごくひょう)」という力士がまた強く、なんとも
困ってしまったことを覚えています。

 

中学3年生も燃えた手作りの「鼻クソ野球」

 

「トントン紙相撲」は半分手作りのようなものですが、完全に手作りのゲームが
クラスで大流行したこともありました。といっても、私が考案者ではないのですが。

小学3年の夏に、父親の転勤にともなって、埼玉県から大阪府高槻市の小学校に
転校したのですが、そこで手作りの野球盤を教えられたのです。

これは大きめの画用紙に野球場の形を再現したもので、まずホームベースから
1塁を経てライトのポールに伸びるファウルラインと、3塁を経てレフトの
ポールに伸びるファウルラインを描き、ダイヤモンドやピッチャープレート、
バッターボックスも描きます。

あとは外野のフェンスとバックスクリーン、外野スタンドなどを描けば、
いわゆる「フェアゾーン」の形が完成します。

そのフェアゾーンを細かく線や曲線で区切って、「アウト」「ヒット」「2塁打」
「エラー」「ダブルプレー」など、打撃の結果を書き込んでいくのです。

外野スタンドは基本的に「ホームラン」のゾーンですが、一部に「アウト」や
「チェンジ」などの結果を紛れ込ませておきます。

そのような文字で埋まったフェアゾーンに向かって、攻撃側の人間がホームベースに
置いた小さな球を、自分の人差し指や中指でポーンと弾きます。つまりはそれが、
ひとりの打者の攻撃に相当するわけです。

球が鼻クソのようだったことから、私たちは「鼻クソ野球」と呼んでいました。

球がファウルゾーンに出てしまった場合は、もちろんファウル。

球が「チェンジ」に止まった場合は、ひとりの打者でいきなりスリーアウトとなり、
3人が凡退した扱いになります。

また、球が外野スタンドを越えて場外、つまりは画用紙の外へ出てしまった場合は
アウトです。

指で弾く球は、高槻市の小学校で友人に教えられたときには、ノートの切れ端を
丸めたものを使っていました。

しかし、それだとすぐに崩れてしまうので、私が父親からタバコの箱についている
銀紙をもらって、それを丸めて使うように改良しました。これは非常に長持ちします。


高槻市には半年いただけで、小学4年からは吹田市の小学校へ転校になりました。

5年になったとき、この手作り野球盤をクラスで披露したら大いに受けて、
みんながこぞって自分の野球場をつくるようになりました。

それで終わりと思っていたのですが、中学3年のとき、小学5年で同じクラスだった
友人と同級生になり、どちらからともなく「あの野球盤を再現しようか」という
話が出たので、みんなに披露してみたところ、またまた大流行です。

まさか中学の詰襟制服を着て、あの手作り野球盤をやることになるとは思いも
しませんでしたが、それほどインパクトのある遊びだったのだと思います。

このとき、阪神ファンの友人Kが甲子園球場をつくったのですが、なんと外野の
得点掲示板のところが立体になっている、とてつもなくリアルな球場でした。

私はもちろんナゴヤ球場で、他に後楽園、神宮、横浜の各球場があり、
広島ファンの替わりに南海ファンがいたため、大阪球場もありました。

みんなで自分のチームの選手について、打率や防御率まで細かく計算して、
記録をつけて…。あの情熱はいったい何だったのでしょう。