解✦談

解りやすく、解きほぐします。

為替について、何をどう考えるか?

円高は輸入に、円安は輸出や海外投資に有利

 

私たち日本人が「為替」と聞いてまず思い浮かべるのは、「円高」あるいは
「円安」という言葉でしょう。

そもそも円高や円安は、私たちの日常生活にどのような影響を及ぼすのでしょうか。

一般によく言われるのは、こんなことです。

円高になると → 輸入品が安くなったり、海外旅行先で安く買い物ができるといった
  メリットがある。

●円安になると → 私たちが海外の金融商品に投資している場合、リターンが増加する
  メリットがある。

上記のメリットは、円高と円安が逆になれば、そのままデメリットとなります。

また、輸出で稼ぐ日本企業にとっては、円高は売り上げが減少するので
デメリットとなり、円安はその反対でメリットとなるというのが一般的な説明です。

いまさらという感はありますが、こうした関係について、具体的な数字を使って
確認しておきます。

まず、輸入と輸出について。

現在の為替レートが1ドル=100円だったとして、日本が米国から、
ある製品を100ドルで輸入したと仮定します。

このとき、日本から米国に支払う円の金額は「100円×100ドル=1万円」です。

為替がその後、1ドル=90円まで円高になった場合、同じ製品を100ドルで
輸入すると、支払う円の金額は「90円×100ドル=9000円」で済むことになります。

つまり、輸入では円高が進むと有利になるわけです。

現在の為替レートが1ドル=100円だったとして、日本が米国に、
ある製品を100ドルで輸出したと仮定します。

このとき、米国から日本に支払われる円の金額は「100円×100ドル=1万円」です。

為替がその後、1ドル=110円まで円安になった場合、同じ製品を100ドルで
輸出すると、日本が受け取る円の金額は「110円×100ドル=1万1000円」まで
増えることになります。

つまり、輸出では円安が進むと有利になるわけです。


次に、私たちが海外の金融商品に投資する場合。

為替レートが1ドル=100円のときに、ある米国株を100ドルで購入したと仮定します。

このとき、私たちが支払う円の金額は「100円×100ドル=1万円」です。

為替がその後、1ドル=110円まで円安になってから、私たちがその米国株を
換金すると、どうなるでしょうか。

米国株の株価が購入時と同じく100ドルだった場合、私たちの手元には
「110円×100ドル=1万1000円」が戻ってきます。

現地の通貨建ての株価(上記の例では米国ドル建ての株価)がまったく動いて
いなくても、単に為替レートが円安になっただけで、それを換金して円建てに
戻したときの金額は自動的に増えることになります。

つまり、私たちが海外の金融商品に投資する場合には、円安が進むと
有利に
なるわけです。

 

実際に円安が進むまで海外資産を持ち続ける

 

さて、こうした為替に関する基本的な事項を確認したうえで、
改めて考えてみたいことがあります。

私たち日本の個人が、円以外の外貨や、外貨建ての金融商品に投資する
意味とは何でしょうか。

以下のような内容が考えられます。

①為替レートの変動を利用して、為替差益を得る(投資収益の追求)

②海外の株式や債券などに投資することで、日本国内よりも高い投資収益や
 金利収入をねらう(投資効率の向上)

③将来的な円安やインフレなどによる円の購買力の低下に備えて、
 円以外の通貨も持っておく(リスクの回避)

①の為替差益とは前述のとおり、私たちが海外の金融商品に投資している場合に、
為替レートが円安になれば自動的に得られる「リターン増加分」のことです。

②は要するに、海外には日本国内よりも高いリターンが期待できる株式や
債券があるので、それらにも分散投資することで、全体的な投資成績の底上げを
図りましょうということです。

私たちはふつう、最終的には海外の金融商品を換金して、円に戻して使おうと
思うはずです。

その場合、円高になるとその分だけ自動的にリターンが削られて、たとえ海外の
金融商品から高いリターンが得られたとしても、それが台無しになってしまう
恐れがあります。

だから、②については為替レートが将来的に少なくとも現状維持か、できれば
円安になることが条件といえます。

③については、日本の食料自給率が37%(2020年度、カロリーベース)、
エネルギー自給率が11.8%(2018年度)といった数字が大いに関係してきます。

日本は食料の6割以上、石油や天然ガスなどエネルギー資源の9割近くを
海外からの輸入に頼っていることになりますが、それらの輸入代金は
世界の基軸通貨である米ドルで支払われるのが一般的です。

将来的に円安が進むと、食費や電気・ガスなどの公共料金といった日常生活に
欠かせないコストが値上がりして、私たちの家計が圧迫される恐れがあります。

その際に、資産の一部を外貨建てで持っていれば、円による支出の増加分を、
円安による外貨建て資産の値上がり分によって補うことが可能になります。

逆にいうと、将来的に円安やインフレにならない可能性が高いのならば、
わざわざ為替変動リスク(円高になるとリターンが削られるリスク)を
負ってまで、外貨を持つ意味はありません。


こうしてみると、私たち日本の個人が外貨や外貨建ての金融商品に投資するのは、
あくまでも将来的に円安が進むことを前提にしていることになります。

高い確率で将来、いまよりも円安になりそうだから、それを利用して投資の
リターンを増やす(上記の①②)と同時に、円安による購買力の低下にも
備える(上記の③)ことが、外貨や外貨建ての金融商品に投資することの
意味であり、目的でもあるわけです。

その目的を十分に果たすためには、日常生活のなかでよほど緊急の資金需要が
発生するなどの事情がないかぎり、当初の前提どおりに円安が進む日まで、
私たちはいちど投資した外貨や外貨建ての金融商品を持ち続けるべきでしょう。

ところで、為替の動きを予測するのは専門家でも難しいと言われています。

一般論としては、少子高齢化が進むなかで日本の経済成長率がこれから
鈍化していくことは避けられないため、中長期的にみて予想以上の円安になる
可能性があることは確かでしょう。

しかし実際に円安が進むとしても、それがいつ頃、どの程度まで進むのか、
現段階では誰にも分からないのが実情なのです。

だとすれば、とりあえず将来的な円安に備えて、無理のない範囲で準備だけは
整えておくというのが、私たちにとってのベストな選択ではないでしょうか。

予想以上の円安になるまでの期間において、私たちが投資に万全を期すという
意味では、日本国内の株式や債券への投資もやっぱり必要です。

と同時に、投資資金の一部を海外の株式や債券にも振り向けておく。

結局のところ、こうした国際分散投資の考え方が、最も無難かつ、最も有効な
手段といえるような気がします。

 

解らなすぎる「時間」の話

640年の時を超えてやってくる

 

宇宙には数え切れないほどの星があるので、私たちが見る夜空は本来、
星によって隙間なく埋め尽くされているはずです。

ときどき写真などで見かける「銀河」と同じように、夜空全体が煌々と
輝いて見えてもいいはずなのです。

でも実際には、「満天の星」が見渡せる空気のきれいな山や海へ行っても、
せいぜい天の川が目立つぐらいで、夜空はやっぱり暗いし、たくさんの
隙間が確認できます。

その大きな理由は、宇宙がいまも膨張し続けていて、多くの星が地球から
どんどん遠ざかりつつあるからだそうです。

自分から遠ざかっていく物体から出た光は、音の場合と同じく、
ドップラー効果」によって波長が長くなります。

波長の長い光は赤く見えますが、地球から遠ざかる多くの星から出た光は波長が
長くなりすぎて、人間の肉眼では見えないマイクロ波になってしまっています。

つまり、夜空は実際に暗いのではなく、人間の目には暗くしか見えないのです。

それほどまでに、宇宙の星の多くは、地球から遠いところにあるわけです。

私たちにお馴染みの太陽や月は近いところにありますが、それでも光が届くのに、
それなりの時間がかかります。

太陽から地球までは1億5000万km、月から地球までは38万kmの距離があります。

光の速さは秒速30万kmなので、太陽から出た光は地球へ届くのに約8分かかり、
太陽光を反射した月の光が地球へ届くのには約1.3秒かかることになります。

言い換えれば、地球上にいる私たちはどう転んでも、太陽については約8分前、
月については約1.3秒前の姿しか見ることができないということです。

私たちは普段、太陽や月を見ながら、このようなタイムラグについて
意識したりはしません。

それは日中の太陽や、夜間の月が、周期的に私たちの前に現れるからだと思います。

それでは、普段はない(見えない)ものが突然、目の前に現れたとしたら、
どうでしょうか。

冬の星座として有名なオリオン座の、私たちから向かって左上に位置する
ベテルギウスという星は、いろいろな意味でロマンにあふれる魅力的な存在です。

ベテルギウスは直径が太陽の1000倍、質量が太陽の20倍もある赤色超巨星で、
さまざまな観測結果から、恒星の一生の晩年にさしかかっていると言われています。

 

太陽の8倍以上の質量がある星の多くは、一生の最後に超新星爆発」(※)
起こすので、ベテルギウスもいずれ超新星爆発を起こして一生を終えることは
間違いありません。

超新星爆発:自らの重力に耐えられなくなった星が一気にグシャッとつぶれ、
 その反動で大爆発を起こす現象。

ベテルギウス超新星爆発を起こすと、3~4カ月にわたって満月の100倍の
明るさで輝き続け、私たちは昼間でもそれを見ることができるそうです。

その後はだんだん暗くなっていき、4年ぐらいで肉眼では見えなくなります。

ベテルギウス超新星爆発は、いつ起こるのか分からないし、
すでに起こっている可能性もあります。

ベテルギウスと地球は640光年離れているため、ベテルギウスから出た光が
地球に届くまでには640年かかります。

つまり、超新星爆発が起こってから640年間は、私たちはその事実に
気がつかないのです。

10年前の2011年の時点では、「2012年にもベテルギウス超新星爆発
見られるかもしれない」と騒がれましたが、最新の研究によると、
「爆発は今後100万年以内」というずいぶん悠長な話に変わってきています。

ただし、宇宙は分からないことだらけなので、「やっぱり爆発した!」という
ニュースがいつ飛び込んできても不思議ではありません。

たとえば来年(2022年)、私たちがベテルギウス超新星爆発を目撃できたと
空想してみましょう。

実際の爆発は640年前の、1382年だったことになります。

日本では鎌倉時代が終わって室町時代が始まる前の、いわゆる南北朝時代
あたります。

そんな昔にベテルギウスから放出された光が640年間、ずっと宇宙を飛び続けて
地球に到達した。それまで無かったものが突然、私たちの目の前に現れた--。

これって、とてつもなく不思議なことではないでしょうか。

バカげた言い方をするなら、「超新星爆発という事実」がタイムマシンに乗って、
640年の時を超えて現代にやってきた…とか。

この話を思い浮かべるとき、私は決まって「時間とは何だろう」と考えます。

そして、何も解らないことに途方に暮れます。

 

人間がこしらえた幻想なのか?

 

2018年に刊行された『僕たちは、宇宙のことぜんぜんわからない』という
本があります(ダイヤモンド社)。

そのなかに「時間って何?」という章があるのですが、そこには
「時間は物理学的に定義することさえできない」と書いてあります。

その理由として、以下のような「時間についてのややこしさ」が説明されます。

1.時間と空間は似ているが、同じようには扱えない。
 たとえば私たちは、空間内を自由に移動したり、移動のスピードを自由に
 変えたりできるが、時間についてはそうした自由がない。

2.時間は一般には「過去→現在→未来」という一定方向(前への方向)にしか
 進まないと考えられているが、ほとんどの物理法則では、時間が前に進もうが
 後ろ(逆向き)に進もうが問題はない(法則が成り立つ)

3.かつて時間は誰にとっても共通な「ひとつのもの」と考えられていたが、
 アインシュタイン相対性理論により、人それぞれが置かれた環境によって
 時間の進み方は異なることが証明された。

そして、結局はまだ何も分からないということで話は終わります。

仕方がないので、どうせ何も解らないだろうと思いながら、
また別の本を読んでみます。

2019年に刊行された『時間は存在しない』という本(NHK出版)と、
2020年に文庫化された『すごい物理学入門』という本(河出文庫)。

両方とも、カルロ・ロヴェッリというイタリアの物理学者が書いた本の翻訳版です。

『時間は存在しない』はあまりに内容が難しく、途中でギブアップしました。

『すごい物理学入門』には、上記2.と同じようなことが書いてあります。

●熱の移動がみられない場合、または移動した熱の量が無視できるほど
  微量だった場合、物理学では未来も過去とまったく同じように振る舞うと考える。

●たとえば、太陽系の惑星運動において熱はほとんど意味をもたないので、
  惑星の運動がたとえ逆向きになったとしても、物理の法則に何ひとつ
  反することはない。


ところがです。ある現象に熱がかかわると、未来は過去と異なるものになると、
カルロ先生は言います。


●摩擦がないかぎり、振り子は永遠に揺れ続ける。揺れている振り子の映像を
  撮影して、それを逆に再生しても、動きはまったく不自然には見えない。

●そこに摩擦が生じると、摩擦によって振り子は支柱をわずかに温めるため、
  それによってエネルギーが奪われ、揺れるスピードが遅くなる。つまり、
  振り子の揺れがゆっくりになっていく「未来」と過去が区別できるようになる。

こうしたことから、未来と過去を区別する根本には、熱いものから
冷たいものへの熱伝導がかかわっているというのです。

どうやら熱のやり取りが、時間というものの正体を解き明かすための
ヒントになりそうだということまでは判明したらしいのですが、
その先の答はやっぱりカルロ先生にもまだ分からないそうです。


私が想像したのは、こんなことです。

時間について、物理学的に定義することもできず、方程式もつくれないのだとしたら、
距離や速さといった「私たちが視覚的に把握できるもの」とは、そもそも性質の
異なるものなのではないでしょうか。

まず考えられるのは、「時間=人間がこしらえた幻想」ということです。

たとえば人間以外の動物は、飛んだり跳ねたりするときに「距離」を測るし、
敵や獲物の移動を把握するにあたって「速さ」への認識もあるはずです。

でも、時間については朝・晩とか季節とか「エサの時間」とか、
周期性への認識はあっても、1日や1年という量的な認識はないでしょう。

人間が量的な時間の認識にこだわるようになったのは、生きていくうえでの
知恵ということに加えて、死や寿命に対する怖れが関係していたのかな、とも
思ったりします。

時間に対する幻想は、記憶の鮮明さとも関係があるかもしれません。

他の動物に比べて、人間はあまりに過去の記憶が鮮明に残っているため、
相対的に「現在がすべて」という感覚が薄く、あるいは現在への集中度が弱く、
だからこそ過去と現在の関連を強く意識するのではないか。

そこから「未来」という、まだ見ぬ、あるかどうかも分からない状況への
連想も湧いてくるようになったのではないか--。


記憶に関しては、星新一『午後の恐竜』という面白い作品があります。

ある日曜日の朝、男が目ざめると家の外では恐竜が闊歩し、数億年前の
シダのような巨大植物が繁茂していました。

テレビニュースでも話題になっているところをみると、それは男の幻覚ではなく、
どうやら世界中で同時に起きている現実のようです。

ただし、家の外に広がっているものには実体がなく、巨大植物を触ろうとしても、
まるで蜃気楼のように手をすり抜けてしまいます。

やがて外を歩いているのは哺乳類の先祖のような動物に変わり、
原始人が現れ、馬やツル、クマとだんだん見慣れた動物に変わっていきました。

これが実は、人間が死に直面した際に見るといわれる「過去の回想シーン」で、
ある事件によって人類が滅亡の危機にさらされていたため、全世界が集団で
地球の回想シーンを目にした、という内容です。

そこでは地球上に生命が誕生してからの歴史が、ほぼ1日に凝縮して展開されます。

私もかつて友人から、車で田んぼに突っ込んだときに、落ちていくまでの短時間で
「回想シーンをはっきり見た」という話を聞かされたことがあります。

過去の記憶をまとめて引っ張り出すのに、ほとんど時間がかからないのだとしたら、
「時間っていったい何なんだろう?」という思いは、余計に強くなります。

 

毎月分配型投信の盛衰にみる不幸

複利効果が効かなくなる


いまから4~5年ほど前まで、毎月分配型タイプの投資信託が、
日本の高齢者を中心に異常なほどの人気を誇っていました。

毎月分配型は当初、いわゆる外債投信(外国債券に投資する投資信託)が主流でした。

大ヒット商品となった『グローバル・ソブリン・オープン(通称:グロソブ)』は、
2005年から08年にかけて純資産が5兆円を超えていました。

通常、投信の純資産は1兆円を超えれば大ヒットといわれるので、
グロソブは大・大・大ヒットのレベルです。

その後、もっとリスクの高い海外の投資対象に投資してハイリターンを狙う
タイプやら、毎月ではなく隔月で分配するタイプやら、さまざまな商品が
手を替え品を替え登場し、いずれもそこそこの人気となりました。

なぜ毎月分配型投信があんなに支持されたのか、正直にいって私はいまでも
解りません。言い換えるならば、毎月分配型投信をあえて購入する価値が
どうしても見出せない
のです。

まず、分配金というかたちで投資収益(リターン)の一部をしょっちゅう
投資家に払い戻すことで、長期投資のメリットである複利効果」が十分に
効かなくなります。

これは計算すれば分かることなので、一例を示してみましょう。

たとえば、私たちが一般的な投信Aに100万円を投資して、投信Aの投資成績が
1年目にプラス12%、2年目にも同じくプラス12%だったと仮定します。

投信Aがいっさい分配金を出さない場合、各年の投資成績は以下のような
計算で表されます(税金やコストは含みません)。

●1年目/100万円×1.12=112万円(1年間の増加額は12万円)
●2年目/112万円×1.12=125万4400円(1年間の増加額は13万4400円)

投信Aに投資した人の2年間の投資収益額は25万4400円です。

1年目の増加額である12万円が、2年目のスタート時にプラスされることで
投資元本が増えるため、毎年の増加額が加速度的に増えていく。
それが、いわゆる複利効果です。

それでは、私たちが毎月分配型の投信Bに100万円を投資した場合はどうでしょうか。

投信Bの投資成績も投信Aと同じく1年目、2年目ともにプラス12%だったとします。

ただし、こちらは毎月1万円ずつ分配金を投資家に払い戻します。

投信Bの1年目の投資成績は、投信Aと同じく「100万円×1.12=112万円」ですが、
そこから「1万円×12カ月=12万円」の分配金を払い戻すため、
2年目の投資元本は1年目と同じく100万円となります。

なお、この時点で投資家には12万円が投資収益として入っています。

2年目も1年目と同じことが繰り返されるので、投資家には再び12万円が
投資収益として入り、投資元本は再び100万円に戻ります。

投信Bに投資した人の2年間の投資収益額は「12万円×2年=24万円」なので、
すでに投信Aに投資した人より少なくなっていることが分かります。

もちろん、投信Aに投資した人は、まだその投資を継続中なので、
投資収益を換金して手にしたわけではありません。

あくまでも「投資の途中経過」が25万4400円のプラスになっているだけです。

一方で投信Bに投資した人は、すでに24万円を換金した、つまりは24万円分の
投資収益を確定させたことになります。

 

高齢者ならではの心理が影響した

 

改めて考えたいのは、投資における複利効果というメリットを犠牲にしてでも、
定期的に投資収益を換金する必要が本当にあるのか、ということです。

毎月分配型投信が人気を集めた理由として、高齢者を中心に投資家が
定期的な分配金を「日々の生活費の足しになるお小遣い」のような感覚で
とらえているからだという説明をよく耳にしました。

「日々の生活費の足しになる」とはいっても、たとえば数千万円の資金で
毎月分配型投信を購入したような投資家が、生活費に困っているはずはありません。

私はむしろ、高齢者を中心とした「投資に不慣れな人たち」が、
以下のような心理から、毎月分配型投信を重宝したのではないかと考えています。

●日々の投資状況は単なる途中経過である、と割り切ることができない。

●そのため、将来的なリターンの拡大よりも、目先の小さくても安定した
  リターンや心の平穏を優先する。

こうした心理状態には、高齢者ならではの背景もありそうです。

日本人の寿命が延びて人生80年や90年が当たり前になったとはいえ、
高齢者にとってはやはり、残された時間は決して長くないというのが
本音だと思います。

せっかく投資でリターンが得られるのなら、少しずつでもいいからできるだけ
早くそれを手にして、元気なうちに自由に使える喜びを味わいたい。

そんな気持ちは分からないでもありません。

しかし、残念なことに、ある時期から毎月分配型投信は本当に
投資する価値のない代物に成り下がってしまいました。

運用会社の間で、毎月分配型投信の「分配金利回り」(※)の大きさを
競う動きが激しくなって、投資収益を分配金に回すだけではなく、
投資元本を取り崩して(削って)分配金にあてる商品が増えたのです。

※分配金利回り:過去1年間の分配金総額をその時点の基準価額で割ったもの。
 株式における配当利回りに相当します。

分配金利回り競争が激化したのは、運用会社だけのせいではありません。

その当時、毎月分配型投信の人気はすさまじく、投信業界では
「毎月分配型でないと売れない」と言われるほどでした。

販売会社である銀行や証券会社なども、毎月分配型投信を売ることに
躍起になっていたはずです。つまり、そうした販売会社からの要請で、
運用会社が「分配金利回りを高く見せる」必要性に迫られたということも、
十分に考えられるのです。

投資元本を削ると、それ以降の投資については複利効果と逆のことが起こります。

前述の投信Bでは、1年目に投資元本から10万円分を削ってさらなる分配金に
あてた場合、2年目の投資元本は90万円まで減るため、2年目の投資成績は
「90万円×1.12=100万8000円」にしかなりません。

こんなことを繰り返していたら、分配金利回りという表面的な魅力はいくら
高まっても、肝心かなめの投資部分による収益獲得力がどんどん弱まって
いってしまいます。


最終的に、毎月分配型投信は金融庁から「顧客本位ではない商品」と批判され、
異常なブームは終わりを告げることになりました。

以前からよく言われていることですが、投信業界では、売れ筋や人気の商品が
必ずしも「品質が良い商品」とは限りません。

品質が良い投信とは、一般個人が長期で資産形成をおこなうのに役立つ
投信のことです。

その意味では、ひと頃まで日本で投信を買うのは高齢者が中心だったという事実は、
投信業界にとっても投資家にとっても不幸だったのかもしれません。

どう考えても、高齢者は若者に比べて長期の資産形成に意識が向きにくいからです。

 

心をつなぐ心霊・怪奇現象

胡散臭いけど、いつも身近にあった

 

むかしから心霊現象や怪奇現象は好きな方です。

私だけでなく、私の世代の多くは好きだったように思います。

小学生時代には、つのだじろう『亡霊学級』『恐怖新聞』『うしろの百太郎』、
古賀新一エコエコアザラク』、楳図かずお漂流教室といった
心霊・怪奇コミックスが、教室で貸し借りされ、みんなで読みあさっていました。

男女10人ぐらいの同級生で「心霊研究会」をつくったこともあります。

教室や、あるときは私の家に集まって怪談話をしたり、こっくりさん
「キューピットさん」をやっていました。

家には不幸の手紙が届き、ヤマギシやら口裂け女やら、
訳の分からない化け物のウワサが絶えませんでした。

稲川淳二が注目を浴びたのは、私が高校3年のときだったと思います。

深夜ラジオの『坂崎幸之助オールナイトニッポン』にゲストで出演した
稲川淳二が、かの有名な「生き人形」の話を披露し、それを同級生のKが
カセットテープに録音して、学校に持ってきました。

「メチャメチャ怖くて、途中からは録音だけして、聴いてへんねん。
もう1回最初からみんなで聴こう」とKが言うので、私を含めた男4人で
軟式野球部の部室にこもり、一部始終を聴きました。

テレビではユリ・ゲラーや清田くん(清田益章)、矢追純一宜保愛子
新倉イワオなど、心霊・怪奇・超常現象がらみの常連さんが相次いで誕生し、
平日の昼間から心霊特集などの番組がたくさん組まれていました。

稲川淳二の「生き人形」もテレビでも何度か放送され、生放送中に怪奇現象が
次々と起きて騒ぎになったりしました。

思えば、幸せな時代だったのでしょう。

胡散臭いけど不思議な話や怖い話が、いつも身近にありました。

大学時代には先輩の「霊体験」も、数人から聞かされました。

2つの印象深い不思議な体験

 

私自身は、いわゆる霊体験はいちどもありません。

明確に不思議な体験も、わずかに2回だけです。

その2回はいずれも、たしか1987年から88年頃にかけての出来事だったような
気がします。正確な年は覚えていません。

1回は、大学のサークルで恒例の夏合宿に行ったときのこと。

ある旅館の別館を借り切って、3泊4日の間に延べ40人ぐらいの現役学生と
OBが出入りする、にぎやかな合宿でした。

畳の部屋を囲むように「コの字形」に細い廊下があり、
そこはカーペット敷きになっていました。

「コの字」の開いたところには、洗面所とトイレが並んでいます。

ある朝、8時か9時頃に目が覚めると、大騒ぎになっていました。

カーペット敷きの廊下だけが、隅から隅までぐっしょりと水で濡れているのです。

「コの字」の中には6畳の部屋が3つぐらいあったので、廊下の一辺は
けっこう長かったはずです。とにかく半端な濡れ方ではありません。
しかも、畳の部分はまったく濡れていないのです。

そこは軽井沢のはずれに位置していて、9月半ばのことだったので、
朝はけっこう冷え込みます。

たとえば洗面所の水道が凍結していて、酔っぱらった誰かが蛇口をひねったけれど
水が出ず、そのまま閉め忘れて、夜が明けてから凍結が解けて水が出っぱなしに
なったのかな、とも思いました。

でも、私たちの多くは明け方の5時ぐらいまで飲みながら騒いでいたので、
それからほんの3~4時間でそんな事態になることは考えづらいし、
だいいち水がジャージャー出ていたら、さすがに誰かは音に気づくはずです。

いまだに原因は分からず、その別館は数年後に取り壊しとなってしまいました。

 

もう1回は、私が東京のアパートから大阪の実家に帰省していたときのこと。

当時6歳か7歳だった飼い猫は、家に来たばかりの0歳時に2~3回だけ
私と一緒に寝てくれただけで、以来、いちども一緒に寝ようとはしませんでした。

その帰省時、私は大学を3年でやめて、次の年に入った専門学校も半年でやめて、
今後の身の振り方についてけっこう悩んでいました。

あてもなく比叡山に登ってみたり、心はフラフラ揺れていたのだと思います。

ある晩、何の前触れもなく猫が近づいてきたかと思うと、ごくごく自然に
私の布団にもぐり込むではありませんか。

どれぐらいの時間、一緒にいてくれたのかは覚えていませんが、
布団のなか、私の腕枕でしばらく静かに寝たふりをしているように見えました。

動物が人間の「心を読む」とは、こういうことなのか、と思いました。

恐らく何かを察して、何かを伝えにきたのでしょう。

2回の不思議な体験は、私にとってどちらも「よく解らない体験」です。

ひとつは現象が起きた原因が解らず、ひとつは猫の伝えたかったことが解りません。

それでも私の心には、若き日の懐かしい思い出として強く印象に残っています。

心霊現象や怪奇現象も含めて、不思議な体験というのは結局のところ、
体験した人の「心の問題」なのではないでしょうか。

本当に起こったのか。原因は何だったのか。誰が何を伝えようとしているのか。
これらは体験した本人が考えて結論を出せば、それでいいような気がします。

一方で子どもの頃、身のまわりに氾濫していた不思議な話や怖い話は、
その多くが「他人の体験談」であり、「他人のつくり話」です。

いま振り返ると、それらは私たちにとって、コミュニケーション・ツールの
ひとつだったように思います。

私たちそれぞれの心を豊かにしてくれた、とまでは言いませんが、
少なくとも友人たちと時間を共有する際の、心と心をつなぐ、
手っ取り早くて意外と重要なテーマだったような気がするのです。

 

リベンジ馬券

先輩の直観に乗り切れなかった後悔

 

競馬はしょせん、ギャンブルのひとつにすぎませんが、
それなりに長くやっていると、自分だけのドラマというか、
思い出のようなものも生まれてきます。

たとえば私には、「リベンジ馬券」の記憶が2つあります。

ひとつは、かなり古い話です。

1987年9月20日(日)。

この日は夕方6時頃から、大学時代に所属していたサークルの飲み会が
予定されていました(ちなみに私は、この年の3月いっぱいで大学を
除籍になっていました)。

昼の2時頃だったでしょうか。

サークルのOBで、すでに社会人3年目の先輩と一緒に、西武新宿線
沼袋にある喫茶店で遅めのブランチを食べていました。

6時までには時間があるし、競馬でもやるかと、サンケイスポーツ
見ていた先輩が、「ホンマに来るんかな」と言って紙面を見せてくれました。

そこにはメインレースのGⅢ「オールカマー」の馬柱が載っていて、
佐藤洋一郎という穴予想専門の競馬記者が2枠②番のガルダンという馬に、
ポツンと◎を打っています。

オールカマー」は中山競馬場の芝2200mで、地方競馬所属の馬でも
出走できるという、当時のJRAとしては珍しいレースのひとつでした。

いまでこそ中央競馬JRA)と地方競馬の交流は普通ですが、
当時はそうした慣例がなく、地方競馬所属の馬は基本的にダート(砂)の
レースしか経験がなかったため、芝のレースでは不利になります。

つまり、地方競馬所属の馬が「オールカマー」に出てきても
人気になりにくいわけです。

ガルダンは大井競馬所属の地方馬だったため、その日は14頭立ての10番人気でした。

先輩は「う~ん」と唸ってから、「リャン・ウー・パーの筋でいくか」と言いました。

これは麻雀用語で、「1・4・7」「2・5・8」「3・6・9」という
3つのラインのうち、「2・5・8」を指すものです。

競馬にこの用語をあてはめるときは通常、「2・5・8」の3角買い、
つまりは「2-5」「2-8」「5-8」の3点を買うことを意味します。

その頃、馬券の種類は「単勝」「複勝」「枠連」の3種類しかなかったので、
枠連の3点買いということです。

私もその先輩の直観に同意し、急いで新宿の場外馬券場に向かいました。

先輩はその通りに3点を1000円ずつ買ったのですが、
私はいざ馬券を買う段階になって、少しだけ迷ってしまいました。

6枠⑨番にフレッシュボイスという、好きな馬がいたのです。

どういうわけか、フレッシュボイスがらみの馬券も買いたくなり、
悩んだ末に私は「2-5」「2-6」「5-6」「5-8」の4点を買いました。

結果は、1着が8枠⑭番のダイナフェアリー(2番人気)、
2着が2枠②番のガルダン(10番人気)で、枠連2-8は47.7倍の払い戻しでした。

私は「熱く」なり、最後で日和った自分が許せなくて、夕方からの飲み会も、
ちっとも楽しくありませんでした。

たった3000円で思いつきのように買った馬券が4万円を超えて、
先輩がウハウハだったことは言うまでもありません。

それから3年後の90年9月16日(日)。

同じ「オールカマー」の5枠⑩番に、ジョージモナークという馬が出走してきました。

この馬もガルダンと同じく大井競馬所属の地方馬で、騎手も同じ的場文男です。

ジョージモナークは17頭立ての8番人気。

私は迷うことなく枠連の「2-5」「2-8」「5-8」を買い、念のため
人気薄が集まった8枠のゾロ目「8-8」も付け足しておきました。

結果は、1着が8枠⑰番のラケットボール(11番人気)、
2着が5枠⑩番のジョージモナーク(8番人気)で、
枠連5-8は61.3倍の払い戻しでした。

4000円が6万円となり、3年前の借りを返すことができたわけですが、
枠連2-8と5-8の違いさえあるものの、両レースとも1着が大外枠の馬で、
2着に同じ的場が乗った地方馬が入るというのは、因縁というか、
でき過ぎたドラマのように思えました。

 

自分が心酔した予想法で借りを返す

 

それから少し歳月が流れた、2001年12月23日(日)。

年末の中山GⅠ「有馬記念」は、
1着が4枠④番のマンハッタンカフェ(3番人気)、
2着が1枠①番のアメリカンボス(13番人気)で、
馬連①-④は
486.5倍の大万馬券でした。

実はこの馬連①-④という組み合わせは、競馬ファンなら誰でも
「とりあえず買っておこうかな」と考える馬券だったのです。

有馬記念」は以前から「世相を反映するレース」などといわれ、その年に起きた
事件などに関連した名前の馬が、けっこう好走することで有名です。

2001年は、いわゆる「米国9.11テロ事件」が起きたため、米国に関連する
名前の馬には要注目といわれていました。

マンハッタンカフェアメリカンボスは当然として、当日の「有馬記念」には
5枠⑥番のダイワテキサスという馬も出走しており、これら3頭をからめた
馬券を買うべき、ということになります。

しかし、13頭立てでダイワテキサスは12番人気、アメリカンボスにいたっては
どん尻の13番人気であり、なんぼなんでも、こんな「ベタ」な馬券は
来ないだろうというのが私の結論でした。

結局、その日の私は馬券を買いに行きながらも「有馬記念」は買わず、
他のレースの馬券をたくさん買ったのですが、それにはもうひとつ、
大きな理由がありました。

当時の私は、北野義則という放送作家が書いた『馬券練習帳』という
シリーズの本に凝っていました。

そこに書いてあったのは、こんな内容です。

●レース中に馬が2コーナー、3コーナー、4コーナーでどのような
  通過順位にいたかに注目せよ。

●たとえば16頭立てのレースで、2コーナーが「14番手」、3コーナーが「3番手」、
  4コーナーが「2番手」で、最終的に1着から0.4秒差の7着だったような場合、
  その馬は2コーナーから3コーナーの間で相当な無理をして順位を上げ、
  にもかかわらず最終的に0.4秒差に健闘したことになる。

●その馬はかなりの地力があると考えられるため、次回以降のレースでスムーズな
  レース運びをした場合、好走する可能性が高い。

この予想法に心酔してしまった私は、過去にスムーズではないレース運びをして、
なおかつ健闘した馬を必死で探しました。

有馬記念」の当日、阪神の10レースにハートランドヒリュという馬が出走していて、
この馬が5走前に無茶なレース運びで1秒差の7着となっていました。

「これだ!」とひらめいた私は、ハートランドヒリュに思い切り突っ込んで、
あえなく散ったのでした。

そんなわけで、自分が「有馬記念」を買わなかったことを悔やむと同時に、
知人とその友人たちが何人も、その「有馬記念」の大万馬券(1000円が48万円)を
普通に獲っていたと聞いて、余計にハラワタが煮えくり返りました。

この借りは、自分が心酔した予想法で取り返すしかない。

そう思っていた矢先の、2002年5月19日(日)。

東京GⅠ「オークス」で、私は5枠⑩番のスマイルトゥモローから
単勝枠連馬連を買いました。

スマイルトゥモローは前々走を無茶なレース運びで勝っていたため、
相当に地力が高いのだと思い、前走の「桜花賞」でも私はこの馬からけっこう
馬券を買っていました。

桜花賞」は6着に終わりましたが、最後の直線で追い込んできたとき、
明らかに「脚を余した」、つまりは仕掛けが遅すぎて負けた感じでした。

それを見た時点で、次の「オークス」もこの馬から買うと決めていました。

オークス」は、1着が5枠⑩番のスマイルトゥモロー(4番人気)、
2着が2枠③番のチャペルコンサート(12番人気)で、
馬連③-⑩は135.9倍の万馬券となり、それを含めてゴチャゴチャと
2万5000円ほど買っていた馬券は、80万円超えの払い戻しとなりました。

以上の2例は、とりあえず借りを返したことにはなるのでしょうが、
もともとは単純な気の迷いや勝手なこだわりなどにより、馬券の買い方を
ミスッたことに端を発しているわけです。

過去にそうしたミスはあまりに多いため、一つひとつの借りを返そうにも
覚えていられないというのが、私の競馬人生の現実なのかもしれません。

 

債券について理解する

リスクはケース別に考える

 

いま投資に興味をもっている人のうち、債券という金融商品について、
それなりに理解している人はどれぐらいいるのでしょうか。

投資によって資産を増やしたいのはやまやまだけれど、一方で
元本割れはできるだけ避けたいと願う人は多いはずです。

そんな人にとって本来、債券はうってつけの投資対象といえます。

債券の特長は、保有する期間に応じて一定の利息が受け取れるうえに、
満期まで持ち切ると投資元本も戻ってくるという点です。

たとえば私たちが「満期3年・年金利1.5%」の債券Aを、
新規発行時に10万円で買った場合を考えてみます。

満期までの3年間ずっと持ち続けると、毎年1.5%の金利が付くので、
「10万円×0.015×3年間=4500円」の利息が受け取れます。

さらに投資元本である10万円も、そのまま戻ってきます。

債券は一部の種類を除いて、株式と同じように、いちど買ったものを
市場で売ったり、すでに市場で流通しているものを買うことも可能です。

上記の債券Aを、たとえば購入から1年後に売ったとしましょう。

まず1年間の金利1.5%分にあたる「10万円×0.015=1500円」の
利息が受け取れます。

ただし、売ったときの債券価格が購入時よりも下がっていたら、
その分だけリターンは削られることになります。

仮に売却時の債券価格が9万8000円だったとすると、売買によって
2%のマイナスが生じることになるため、利息と合わせたトータルの
リターンは0.5%のマイナスとなります。

反対に、売ったときの債券価格が購入時よりも上がっていたら、
その分だけリターンは上乗せされることになります。

これが債券投資の基本的な考え方です。

債券投資のリスクについては、2つのケースに分けて考える必要があります。

まず、購入した債券を満期まで持ち切るケース

この場合は、債券の発行体(国債を発行する国や、社債を発行する企業)が、
当初の約束どおりに金利の支払いや元本の返還に応じなくなる可能性があり、
極論すれば、それが唯一のリスクとなります。

債券の発行体が当初の約束を守れなくなる状態を、
デフォルト(債務不履行)といいます。

最近では、中国の大手不動産会社が社債のデフォルトに陥るリスクが高まって、
その影響から世界的に株価が下がるといった騒ぎも起きています。

ただし、債券の発行体が世界的に信用されている国や企業ならば、
それほどデフォルトを心配する必要はありません。

たとえば国家としてのデフォルトが考えにくい日本や米国など先進国の国債は、
満期まで持ち切るかぎり、事実上の元本保証商品であるといえます。

もうひとつが、購入した債券を満期以前に売却するケース

この場合は前述したデフォルトのリスクに加えて、債券価格の下落リスクもあります。

債券価格がなぜ上下するかについては、金利がからんでくるため、
かなり話がややこしくなります。

また、債券の価値を表す用語がいろいろあって紛らわしいため、
それを整理しておく必要もあります。

まずは債券用語について簡単にまとめておきます。債券の価値を表す用語として、
「表面利率」「債券価格」「債券利回り」などがあります。

「表面利率」とは、債券の発行体が投資家に支払うことを約束した年間の
利子率のことで、債券の金利にあたるものです。

債券は固定金利型が一般的なので、満期まで持ち切る場合でも、満期以前に
市場で売却する場合でも、発行時に決められた表面利率はいっさい変わりません。
(債券のなかには一部、変動金利型のものもあります)

「債券価格」とは、債券が市場で取り引きされる際の価値を表すもので、
株式の株価や、投資信託の基準価額のような感覚でとらえていいでしょう。

「債券利回り」とは、表面利率による金利収入に、市場での取引による
売買損益も加えて計算した年間収益率を表します。

これは上記の債券Aでいうならば、購入から1年後に売った場合の
トータルリターンにあたるものです。

債券価格の動きに影響を与える要因としては、中央銀行の金融政策や、
国内における資金需要の変動などが代表的です。

日本銀行が金融引き締め策として利上げをおこなったり、日本国内の企業や個人の
資金需要が増加すると、それらに応じて日本の市中金利も上昇します。

市中金利というのは金融市場で決まる標準的な金利のことで、債券金利
ローン金利など、世の中のあらゆる金利の基準になるものです。

ここでは便宜上、市中金利を「世の中の金利」と呼ぶことにしましょう。

 

価格が下がると利回りが上がる仕組み

 

債券価格が上下する仕組みについて、日本国債を例に取って考えてみます。

世の中の金利が上昇するなかで、満期2年の国債Bが10月に、
同じく満期2年の国債Cが11月に発行されたと仮定します。

新規に発行される国債の表面利率は、世の中の金利の動向などに
照らし合わせて決められるため、たとえ満期までの期間が同じ国債でも、
その発行時期によって表面利率は変わることがあります。

極端なたとえですが、10月に発行された国債Bの表面利率は0.5%で、
そこから世の中の金利が上がったため、それに照らし合わせて、
11月に発行された国債Cの表面利率は1.0%になったとします。

国債Cが発行された時点で、投資家の立場から2つを比べると、
新たに発行された国債Cの方が金利面で有利なため、市場では
相対的に魅力が低い国債Bの購入が減って、国債Bの価格は下落します。

国債は新規に発行されるものを購入しても、すでに市場で流通しているものを
購入しても、満期時に戻ってくる元本相当分の金額(額面金額)は変わりません。

そのため、国債Bを「価格が下落した後に買った人」は、満期まで持ち切ると、
売買による収益(売買差益)が発生します。

つまり、同じ国債Bを「新規発行時に額面金額で購入した人」よりも、
債券利回りが上昇することになるのです。

ここまでの話をまとめると、以下のようになります。

●世の中の金利がこれまでよりも上昇する
           ↓
●新規に発行される国債の表面利率がこれまでよりも上昇する
           ↓
●すでに発行されて市場で流通している国債の価格が下落する
           ↓
●すでに発行されて市場で流通している国債の利回りが上昇する

反対に世の中の金利が低下する過程では、これとはまったく逆のことが起こります。

なお、上記の例で国債Bの「利回りが上昇する」というのは、あくまでも
価格の下落を受けて、これから国債Bを購入する人にとっての話です。

新規発行時などに購入して、もともと国債Bを保有していた人にとっては、
世の中の金利が上昇したことで、価格下落のリスクにさらされたことになります。

ところで、日本では現在、満期10年の国債でも利回りが0.05%程度という有様です。

元本割れを避けたい気持ちは強くても、これだけリターンが低くなると、
人びとの興味はなかなか債券には向かないでしょう。

いわゆる外債投信(外国の債券に投資する投資信託)は、いまでも一定の人気が
あるようですが、かつてのような好リターンは期待できないのが実情です。

外債投信がひと頃、好リターンを上げていたのは、先進国で世の中の金利
ほぼ一貫して低下し続けていた時期にあたります。

実はこのように金利が世界的に低下するプロセスでは、外債投信はある程度、
リターンを上げやすいのです。

世の中の金利が低下するなかで、外債投信が保有している債券を中途売却する
ケースを考えてみます。

すでに保有している債券は相対的に金利が高いときに購入しているため、
かなりの量の金利収入が積み上がっています。

しかも、世の中の金利が低下するのを受けて、保有債券の価格は
値上がりしているため、中途売却によって売買差益も得られます。

このように金利収入と売買差益の両面でリターンが得られるため、
世の中の金利が低下するプロセスが長く続くほど、外債投信は高い
リターンを上げやすくなるわけです。

米国で今年中にも金融緩和の縮小が、来年には利上げがそれぞれ
見込まれているように、今後はどちらかといえば、いずれの先進国でも
金利は上昇に向かいやすくなると思われます。

つまり、一部のハイリスクな債券に投資する場合や、為替がこれから
大きく円安に振れる場合を除いて、私たちが外債投信に期待できるリターンが
以前のような高水準に戻ることは、
しばらくはないと考えられるわけです。

ただ、それでも債券についてある程度、理解しておくことは重要です。

たとえば満期10年の国債の利回りは、別名を「長期金利」といって、
さまざまな金融商品の利回りや収益率が妥当かどうかを考えるうえで、
基準あるいは参考になるものです。

いま、日本では満期10年の国債でも利回りが0.05%程度なのだから、
それをはるかに上回るような利回りを保証する金融商品があった場合、
「何かおかしいぞ」と疑いながら冷静に対処することが可能になります。

日本ではかつて、長期金利が8%台の時代(1990年)がありました。
それから大きく下がりましたが、それでも95年は4%台、96年でも3%台でした。

そんな時代と比べれば、いま私たちが株式や投資信託などに過大なリターンを
期待することにはいささか無理がある、と考えるのも妥当なのかもしれません。

 

好きな歌詞あれこれ

歌詞というのは、不思議なものです。

それぞれの歌詞によって、自分の感じ方というか、刺激を受ける部分が
さまざまに変わってくるからです。

好きな歌詞に出合うたびに、自分にはこんな感受性があったのか、
こういう部分に心を動かされるのかと、改めて気づかされます。

たとえば、ユーミンの楽曲で私がいちばん好きなのは、
1977年のシングル『潮風にちぎれて』です。

【泳ぐにはまだ早い 寄せくる波くるぶしまで
 あなたの好きなこのサンダル なぜ履いてきたんだろう】

【砂浜に打ち寄せた 木切れ拾い沖へ投げた
 あなたと歩いた年月を 蹴散らしてみたかった】

情景と心情の両方が伝わってくる素晴らしい、出だしのフレーズだと思います。

この歌詞は私に、ユーミンの他の楽曲を連想させます。

ひとつは『天気雨』

【波打ちぎわをうまく 濡れぬように歩くあなた
 まるで私の恋を 注意深くかわすように】

【きついズックのかかと 踏んで私 前を行けば
 あなたは素足を見て ほんの少し感じるかも】

1976年のアルバム『14番目の月』に収録された1曲ですが、ここでの「私」は、
「あなた」の目に自分がどのように映っているのかを、すごく気にしている
感じがします。

もうひとつは、『DESTINY』のこんな歌詞です。

【冷たくされていつかは 見返すつもりだった
 それからどこへ行くにも 着飾ってたのに】

【どうしてなの 今日にかぎって 安いサンダルを履いてた】

1979年のアルバム『悲しいほどお天気』に収録された1曲で、ここでも主人公は、
元彼氏の目に映る自分の姿を気にしています。しかも、かなり歪んだかたちで。


『潮風にちぎれて』でも、「あなたの好きなサンダルを履いてきた」のだから、
相手の目に映る自分を気にしていることは確かです。しかし、他の2曲とは、
その意味合いがずいぶん異なります。

『天気雨』が憧れの恋、『DESTINY』が未練の恋だとしたら、
『潮風にちぎれて』は、あきらめの恋なのだと思います。

あきらめるために「蹴散らす」という強い言葉を使っているけれど、
まだ相手のことが好きで、だからこそ、わざと「あなたの好きなサンダルを
履いてきた」のでしょう。

『潮風にちぎれて』のラストは、こんなフレーズで締めくくられます。

【あなたと来なくたって 私はもとからこの海が好き】

こういう強がりの部分に、私はどうにも魅かれてしまうのです。

       ★       ★       ★

松田聖子のベスト3を挙げろと言われたら、迷うことなく以下の3曲と答えます。

一千一秒物語/1981年のアルバム『風立ちぬ』に収録
レモネードの夏/1982年のシングル『渚のバルコニー』のB面
『蒼いフォトグラフ』/1983年のシングル『瞳はダイアモンド』のB面(後に両A面)

このベスト3は私のなかで、恐らく死ぬまで変わりません。

ベスト1は『蒼いフォトグラフ』なのですが、それは歌詞によるところが
大きいように思います。


まず、これは素人には絶対に書けないだろうなと唸ってしまう、
作詞家・松本隆の名フレーズ。

【光と影のなかで 腕を組んでいる
 いちど破いてテープで貼った 蒼いフォトグラフ】

「光と影」は、実際の写真にある光と影はもちろん、自分と「あなた」が
過ごした時間の、夢もあったけれど不安定でもあった、そういう光と影も
表しているのでしょう。

写真をいちど破いたけれど、やっぱりテープで貼ったという表現には、
2つの意味があると思います。

①いったんは「あなた」のことを忘れてしまおうと思ったが、
 想い出として残すことにした

②いまから思えば未熟だった過去の自分についても、「あなた」と
 過ごした時間とともに、想い出として残すことにした

つまり、ここでいう「蒼いフォトグラフ」とは、自分にとっての「あなた」を
指すと同時に、過去の自分も指しているわけです。いや、もっと言うなら、
自分が過ごした「あの頃のすべて」でしょうか。


そして2番には、「よくぞこれを書いてくれた」と言いたくなるような、
私が最も好きな歌詞が出てきます。

【次に誰か好きになっても こんなピュアに愛せないわ
 いちばんきれいな風に あなたと吹かれてたから】

たとえ青臭いと言われようとも、やっぱり人には「きれいな風」を感じる
瞬間があり、できることならそれを好きな人と一緒に感じたいのです。

       ★       ★       ★

私にとって長渕剛のベスト1は『いつものより道もどり道』です。
これは1979年のデビューアルバム『風は南から』に収録された1曲。

2番の歌詞がたまりません。

【お金に困ったときでも 夕食の支度するのに
 なぜか楽しさまで感じてました ひとりのいまは なぜか喉につかえます】

【あなたのつくった唄を ひとり口ずさんでます
 私いまごろ あなたが解ってきました 私に対する思いやりみたいなもの】


いまはどうか知りませんが、かつて貧乏暮らしは若者の特権のように
言われた時代もありました。

でも、実際に2人で貧乏暮らしをするためには、この歌詞にあるような
楽観と「たくましさ」が必要なんですよね。

そして、どこまでも相手を信じて疑わない、ストレートな純粋さ。

この歌詞は私に、かわいい猫を見るときの気持ちを思い出させます。

なんとも微笑ましく、思わず口元が緩んでしまうような、あの気持ち。

これもやはり青臭いのかもしれませんが、私にとっては大切な気持ちを
いつも確認させてくれる、愛おしい歌詞になっています。